タグ

ブックマーク / crowserpent.hatenablog.com (22)

  • 「恋愛放棄」にまつわる個人的な話 - 烏蛇ノート

    お久しぶりです。 最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。 今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。 「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。 この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っていると

    「恋愛放棄」にまつわる個人的な話 - 烏蛇ノート
  • 恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化 - 烏蛇ノート

    しばらく放置していてすみませんでした。掲示板での議論については、論点を再整理しようともしたのですが、あまり上手くいかないので諦めました。個人的に、「非モテを社会的弱者とみなすべきか否か」という問題設定自体に意味があると思えない、というのもあります。 今回からしばらく連続して「恋愛」について(正確には「恋愛という概念装置」について)述べていこうと思うのですが、その前にまず前提しておかなければならないことがあります。 それは「恋愛」という実体は存在しない、という前提です。正確には「存在するかどうか分からない」なんですが、そもそも「恋愛が実体として存在する」とはどういうことか、今の段階では定義しようがないため、ここでは「そのような実体は存在しない」と言い切ってしまいましょう。何を言っているかというと、平安時代の貴族の色恋と、明治時代の「恋愛」と、現代の「恋愛」が、それぞれ同じものである保障は無い

    恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化 - 烏蛇ノート
  • 「意味の変容の場」としての「非モテ」 - 烏蛇ノート

    過去の「非モテ」という言葉のネット上での変遷については、以前「『非モテ』の変質と電波男」で述べた通りなんですが、今回はこれを「現在の『非モテ』の意味」と重ね合わせながら改めて見ていきたいと思います。 まずは、件の記事での「非モテ」の説明を再掲しておきます。 「非モテ」という用語はもともとはお笑いネタ系のテキストサイトにおける「芸風」の一つでした。それがどんなものだったかは、クリスマス殲滅委員会(1999年)などにその片鱗を見ることができます。 当時の「非モテ系」は、「自分がいかにモテないか、女性に嫌われているか」を面白おかしくネタにするという「自虐芸」だったんです。このような芸風が成立するためには、「クリスマスにネット見てるような輩は(自分のように)モテない男ばかり」という暗黙の前提を、演じる側も見る側も共有していることが必要でした。 非モテ系とは「ネガティブを装うというお約束」であって、

    「意味の変容の場」としての「非モテ」 - 烏蛇ノート
  • 「モテのパラダイムシフト」について - 烏蛇ノート

    前々回に予告したイカフライ氏への言及が残ってますが、その前に一つ「非モテ」関連の話題を取り上げます。 「非モテ」すなわち「恋愛パートナーが存在しないことに悩んでいる人達」に関しては、「気の持ちようの問題だ」という意見がしばしば見受けられます。それ自体は必ずしも間違いとは言えないんですが、問題はこうした意見を言う人のほとんどが「恋愛至上主義」を前提にして語ってしまうことなんですね。今回取り上げる森岡正博氏の議論も、見事にその「罠」にはまっているんです。 まず、森岡正博氏のこちらの記事から見ていきます。 そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。 そのような観念に絡め取られたうえで発せ

    「モテのパラダイムシフト」について - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2007/05/05
    "「モテ概念」を用いている限り、恋愛・性愛関係の優位を前提としてしまうことは避けられません。すなわち、「モテのパラダイムシフト」は最初から不可能なんです。"うん
  • 恋愛感情は「普遍」ではない(2) - 烏蛇ノート

    前回の続きです。まずは前回説明不足だった、「能」という言葉についての補足から。 動物行動学においては、動物の行動は大きく分けて「生得的な行動」と「後天的な行動(学習)」に大別されます。このうち、生得的な行動を説明するために作られた心理学的概念が「能」で、ある程度複雑化した生得的行動を「能行動」と呼びます。 しかし、生物学の進歩により、「能行動」の仕組みが「信号刺激によって生じる一連の(機械的な)反応の連鎖」であることが分かってきたため、曖昧な「能」という概念は不要になりました。現在、行動学や心理学で「能」といえば、単に「能行動」=「生得的な行動」のことを指します。 現代では、「能」という概念は(生物学や心理学と無関係な)単なる比喩的表現として使われる場合がほとんどです。ところが、「能」という言葉を多用する人ほど、「能」を比喩ではなく、真に生物学的な概念だと勘違いしている

    恋愛感情は「普遍」ではない(2) - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2007/01/30
    (このへんの話は「恋愛の超克」などにも掲載(うろおぼえ
  • 「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず - 烏蛇ノート

    田透の「電波男」以来、「恋愛至上主義」ないし「恋愛主義」こそが「非モテ」の根問題である、という認識が「非モテ」議論の暗黙の前提とされるようになりました。「革命的非モテ同盟」の古澤克大氏もまた、そうした「恋愛至上主義」を最大の問題の一つと考える「非モテ」論者の一人です。 今回は、この「恋愛至上主義」の実体とは何か、を考えつつ、古澤氏を初めとする多くの「非モテ」論者が陥っている「落とし穴」について述べていきたいと思います。 「非モテを苦しめているのは恋愛至上主義である」 という主張に対しては、古典的かつそれなりに有効な反論として 「世間は非モテ達が言うほど『恋愛』一辺倒ではない」「恋愛至上主義に陥っているのは実は非モテ自身である」 というものがあります。Paris713氏やまりねこ氏、ナツ氏の議論はこうした「反論」の典型的なものです。 これらの指摘は、ある面では全く以て正しい議論です。

    「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/12/22
    ?(わかりにくい
  • 「非モテ」が晒される性的視線(2) - 烏蛇ノート

    前回の記事に対して幾つかコメントを戴きましたが、その多くは私の主張に否定的なものでした。今回はコメントへの返答・反論を含め、問題を再度整理してみることにします。 まずはMasao氏のコメントから。電車男の話は色々と込み入っているので、詳しい話は次回に譲ります。 非モテ(というよりも男性全般が)「欲望されることへの恐怖」に鈍感なのは、そもそも男性には、性的視線を恐怖する必要がないからです。理由は大野さんが言う「レイプ」や「望まない妊娠」への危険性が男性には存在しないという、生物学的・身体能力的なものです。よく「電車で痴漢に襲われたら女性は怖がるが、痴女に襲われたら男性は喜ぶ」といいますが、まさにコレですね。 (中略) 男性が女性に対して感じる恐怖というものは、性的・暴力的なものではなく、男性の持つ女性への欲望を「弱み」として逆手に取られ、性欲を餌にいいように扱われ、搾取されることへの恐怖でし

    「非モテ」が晒される性的視線(2) - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/10/24
    (この食い違いは…
  • 「非モテ」が晒される性的視線 - 烏蛇ノート

    前回の記事に対して幾つかの反応がありましたが、その中で最も的を射ていると思われたのが大野氏の記事でした。今回はこの大野氏の記事を参照しつつ、非モテの女性がWeb上で置かれている環境について考えてみたいと思います。 オタク腐女子も、セクシャリティがその嗜好に強く反映される。そして、非モテ男と非モテ女は、しばしば「恋愛弱者」と表現される。つまりどちらの話も「性」を巡っている。男は昔から集まっては猥談などしたりして、性的な言語活動が活発だった。いかにモテるかとかセックスが強いかという自慢話。女はそこに参加することはほとんどない。そんなのは「はしたない」とされたこともあるが、それだけではないと思う。女は不特定多数の男の性的な視線(直接見なくて脳内でも)に晒されたくないのである。 この視線の中には、 『こいつ喪女だよ( ',_ゝ`)プッ;』 というのもありますが、 『喪女…処女だ(;´Д`)ハァハ

    「非モテ」が晒される性的視線 - 烏蛇ノート
  • 「恋愛できない女は洒落にならない」はどこまで本当か - 烏蛇ノート

    はてなダイアリー界隈では、以前から「非モテ女性不可視論」が論じられてきました。これは、はてなダイアリーで「非モテ」を名乗る女性が男性に比べて少ないことから、「非モテの女性はどこに居るのか?」が度々話題になったためです。 今回は、これに関連したMasao氏のこちらの記事より。 http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20061004/p1 たとえば、「女版ラジオクリルタイ」なんて想像できますか、みなさん。ブスが寄り集まって素晴らしい人々へのルサンチマンを語ったり暗い学生時代を振り返ったりするネトラジ。ちっとも笑えない話になるか、やたらハイテンションなお笑いになるか、じゃないでしょうか。非モテ男と非モテ女、いまだ、とてつもなく異質なり。 僕はコレは、「社会的に女は恋愛仕事だから」なんじゃないかと考えています。これは、「女のニートは家事手伝いと名乗れて、男ほど問題視さ

    「恋愛できない女は洒落にならない」はどこまで本当か - 烏蛇ノート
  • 性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート

    前回の記事を受けてのBLUE PINK氏の記事への返答です。 自分が普通の人間だと思っている人は自分が普通の幸福が得られないことをそう簡単に納得できない。これ自体、他人に暴言吐いたりしない限り悪いことじゃない。 もちろん納得できればちょっとは幸せになれるでしょう。でもそれを普通の幸福を享受する人間から言われたら余計こじれるだけ。じゃあ、てめぇも同じ状況になってみろよ、と。 性規範から自由になれ、っていう前に、まずその規範が与える強迫性を考えるべき。「恋愛男女間が当たり前」という性規範に漏れたゲイなんかに、「男女恋愛に固執するから不幸なんだよ。すなおに今の状態を受け入れることでもっと自由になれるよ」なんていったら怒るだけでしょう。受け入れずらくしてるのは誰なんだよ、と。 規範が与える強迫性というものは確かにあるでしょう。そして、それが「規範に従わなければ社会的承認を与えない」という形でな

    性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート
  • 「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?(3) - 烏蛇ノート

    今回は、前回の話と関連して、こちらの記事での覚悟氏からの言及に応えてみようと思います。ちなみに今回のタイトルは「非モテ」となっていますが、覚悟氏の使い分けに従うなら「喪男」のことになります。 「女性に酷い目に合わされた喪男」 代表ブロガー:私(覚悟)やWATA氏など →女性を恐ろしいエゴイストと認識し、恋愛観も非情。 (恋愛を醜いエゴと認識し、恋愛そのものを放棄) 「恋愛、セックス経験豊富なヤリチン」 代表ブロガー:Masaoやシロクマなど →喪男程ではないが、認識のベクトルは比較的近い。 (恋愛を醜いエゴと認識しながらもそれに順応する事を大人としている) 「女にイジメられた訳ではないが恋愛経験無しor少ない非モテ」 代表ブロガー:烏蛇やクリルタイメンバー、その他大勢 →喪男やヤリチンの認識とは異なり、何故かかなり女性に楽観的。 友達として仲良くなれば〜とか性善説的な考え方を持っている。

    「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?(3) - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/08/21
    "一体これの、どこが問題なのでしょうか? それとも、覚悟氏の「恋愛放棄」は口先だけのものに過ぎないのでしょうか?"
  • 「女友達は恋愛と無関係」に潜むミソジニー - 烏蛇ノート

    最近また放置気味ですが、今回は久々に「非モテ」ネタで。 押井徳馬氏のこの記事では、非モテ男性の人達に「とりあえず彼女作れ」とアドバイスすることの無意味さが論じられています。記事の趣旨には全面的に賛同するんですが、問題はコメント欄でのg氏の発言です。 彼女を作る前に女友達を・・・という下りですが、 彼女を持つ事を最終目的とする場合は、 女友達を持つ持たないというのはあまり意味を成さないと思います。 基的に女性は異性に対して友人と恋人を 性的魅力などの要素で厳格にジャンル分けして、 友達のカテゴリにいれられた人は半永久的に そこから脱する事は出来ないようです。 (中略) こういったことを考えると、特に深い意図も戦略もなく、 単純に女友達を作っても恋愛には繋がらないかと。 g氏と同じような主張は、以前Masao氏からもありました。ここでは「好意は必ずしもセックスに繋がらない」ということが述べら

    「女友達は恋愛と無関係」に潜むミソジニー - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/08/17
    "恋愛しなくとも人は承認されるし、生きてもいけます。"
  • ジェンダーを論ずる理由は? - 烏蛇ノート

    中絶をめぐる議論がもう少し残ってますが、その前にちょっと別の話を。引用はシロクマ氏のこちらの記事より。 なぜ、彼ら彼女らはジェンダーに拘って白熱した議論を続けていられるのだろうか?佳い女だったら何でもいいじゃんと思う私にとって、一見すると彼らの行動選択は不可思議で非生産的なものにみえる。“そんな議論に心血を注いでいる暇があったら、もっと異性の魅力を追いかけ回せばいいのに”とか、“女の魅力からジェンダーを除去して、何が面白いんだろ?素直に欲情してイカれちまえばいいじゃん”とか考えてしまう。ジェンダーを議論したところで印税が入ってくるわけでもないのに、異性への恋慕がよりドラマチックになるわけでもないのに…不思議だ。 シロクマ氏が「ジェンダーに拘って白熱した議論ができる」ことが理解できない理由は一見すると単純で、「シロクマ氏にとって興味を惹かれない話題だから」というだけの話に過ぎないように見えま

    ジェンダーを論ずる理由は? - 烏蛇ノート
  • 「愛」という名の性的搾取 - 烏蛇ノート

    前々回の記事でのイカフライ氏のコメントへの返信記事です。 あと、もうひとつ。 >『「愛」の証として、強迫的にこの種の行為を迫られる昨今の風潮』 うーん、これって良く解りません、「脅迫的に迫られる」 あくまで自分の経験に過ぎないのですが、好きな人とは抱きたい、抱かれたい、って、自然に湧いてくる気持ちじゃないんですか? いや、勿論、愛が無くてもセックスなんていくらでも出来ます。実際、昔は親が決めた結婚なんていくらでもあるし、今だって国によってはそうです。 欲望だけでも出来るでしょうし、セックスをお仕事にすることだってあります。 ただ、「したい」という気持ちは、「家のために子供を作らねば成らない」というような社会的強要とは違うもののように思えるんですが。 まあ、もしかしたら、その、特に若き日に「好きだからしたい」と思う感情が、能に根ざした繁殖システムなのかも知れませんけれど。 「愛があればセッ

    「愛」という名の性的搾取 - 烏蛇ノート
  • 「文化系女子論」と「萌え」の構造(2) - 烏蛇ノート

    前回の記事について、「萌え」という語そのものをめぐって議論が迷走しそうな感じがするので、改めてまとめておくことにします。 私は、今回の「文化系女子論」をめぐる話で「萌え」という語が問題になったのは、以下のようなプロセスの結果だと考えています。 「文化系女子」という概念が「ダ・ヴィンチ」等によって「男性視点からのものとして」流布された。 ネット上で語られる「(男性から見た)文化系女子」像に反発した人達が、これを「萌え」という言葉を用いて表現し、批判した。 「萌え」という言葉に深くコミットする人達が、「萌え」という概念自体へのバッシングを危惧し、これに反発した。 加野瀬氏や吉田アミ氏などは「萌えバッシング」を危惧する立場に立っているように見受けられます。しかし、これはやや見当はずれの見方で、「萌え」という言葉が使われていなくとも「文化系女子論」への反発は起こったでしょう。前回述べたとおり、「ダ

    「文化系女子論」と「萌え」の構造(2) - 烏蛇ノート
  • 「さみしさ」の恋愛至上主義 - 烏蛇ノート

    昨日の続きというか、昨日の話を反対側から見たお話です。 まずは私の前回の記事を受けてのまりねこ氏の返信記事より。 でも、いったん三次元で生身の男女として恋愛すると、相手によって自分の性的アイデンティティが支えられるんですよ。 「私って可愛くないでしょ?女の子っぽくないんじゃない?男の子みたい?」 と何回も問いかけて、そのたび、 「いや、僕にとって君は『女の子』以外の何でもなくて、だからこそ好きなんだし」 と真顔で当たり前のように答えられると、なんかだんだんに、心のどこかにあった疑問というかワダカマリがほどけていって、そうか、私、女の子として生きてるんだな、好かれてるんだなって、納得しちゃったわけですよ。女として生まれたこと、精神も肉体も含めて、その現実が受け入れられたというか。 (中略) だって、漫画小説のヒーローは、「私だけを」見つめてはくれないし。「私に」語りかけてもくれないし。「私

    「さみしさ」の恋愛至上主義 - 烏蛇ノート
  • 「恋愛」の耐えられない軽さ - 烏蛇ノート

    大変遅くなりましたが、Maybe-na氏のこちらの記事への返信です。 例えば、これは「恋愛」である、というとき(「愛」でも「セックス」でもいいのですが) これは恋愛である。これは恋愛ではない。という判断をするためには恋愛とはこれこれこういうものだという形式が必要。 その形式には再現性と反復性が必要(再現できないと誰もそれを体験できなくなる)。 恋愛に一定の形式があるということは、人によって得手不得手があるというid:crowserpentさんの意見には同意。でも、再現と反復が可能なものは人に売れます。恋愛もセックスもカタログ化・マニュアル化されているのですから当然売れます。この形式が得意な人が得意でない人の分を生産すればいいわけです。それから再現と反復はパソコンなんかも大変得意ですね。 そりゃ、風俗やエロやエロ漫画やエロゲーやエロ同人誌が売れるわけだ。 そこで「いや、その理屈はおかしい。

    「恋愛」の耐えられない軽さ - 烏蛇ノート
  • 「生物学的」という詐術 - 烏蛇ノート

    急遽はてなダイアリーを立ち上げてみました。以下はこちらの記事及びそのコメント欄への反論になります。 極論をすると、「その価値を安易に否定するとひどい副作用をともなうことがあるような性質の価値基準が存在する」ということさえはっきりすれば、それが生物学的要因によるかどうかは比較的どうでもいいんですね。別の原因から、そうなる、という結論でも、ぜんぜんかまわない。そこは比較的枝葉末節な部分なんですよ。 そうであるならば、何故それが「いかにも生物学に基づいて証明されていると誤読させるような」書き方をされるのでしょうか? これが問題なんですよ。 この記事の前提となっている前の記事を参照すると、「人間力と誠実さと知性を兼ね備えた男の方が、お洒落な男よりモテるように『人間の能』は出来ているはずであり、それに反すると『ひどい副作用』を招く」(大意)と述べられています。これはどこをどう読んでも、生物学を論拠

    「生物学的」という詐術 - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/02/15
    生物学的に童貞は不自然とかもてない人間は劣るとかいう言説への反論(コメントらんでのfromなんとかの(略)ぶりと、対する管理人氏の冷静な対応が興味深い
  • 童貞で何が悪いか!(2) - 烏蛇ノート

    前記事にいくつか感想を戴きましたので、改めて私の主張を再整理しつつ、論じてみたいと思います。 まずはtomoco氏の感想と、それに関するカマヤン氏の議論から。 tomoco氏: ■問題なのは 童貞であることでも処女であることでもそのメンタリティでもなく、出生率が低下しているということであり、イコール生き物として生殖能力が低下しているということじゃないんだろうかと、このへんを読んで思った。そう考えると生き物として30代の童貞や処女はやっぱり不自然なのではないか。 カマヤン氏: 環境がもたらすある種の圧力によって「童貞」「処女」が、おそらく相対的に貧困な層で増えるのではないか、とカマヤンは思う。 (中略) 貧困にあると孤立化し、貧困は外から見えなくなり、さらに孤独になる、というスパイラルがある。 経済収縮期には、主観的要因より「貧困」という外的要因から観察する方が妥当だろうと私は思う。現在は経

    童貞で何が悪いか!(2) - 烏蛇ノート
    TakahashiMasaki
    TakahashiMasaki 2006/02/15
    経済的格差と童貞等の相関は? など(kiya氏コメントが……
  • 童貞で何が悪いか! - 烏蛇ノート

    Maybe-na氏やLeiermann氏への返信記事の前に、ひとまず別の話を。 引用はカマヤン氏のこちらの記事からです。 童貞の苦しみは誰にも打ち明けることができず、不定期に襲う激しい無力感というかたちをとるかな。だから表に出にくいだろうね。童貞の苦しみを抱えた人は決してその苦しみが童貞であるからだとは言わないからね。激烈な孤独感と闘わないとならないし、猛烈な憎悪の感情が不定期に襲うことになる。 (中略) 童貞問題については深刻すぎて言葉が続かないが、私あたりがこの件についてちゃんと語らないと、言説が接続しなそうにも思う。一言言っておくと、社会は童貞を救済する方法をかなり早急に措置するべきだ。どういう措置が可能かなかなか思いつかないが。 童貞は被害者でもなんでもないが、いや、ある種の被害者として見てもいいのかな、童貞でいたくて童貞であるわけではない。いやたしかに少数派で童貞でいたくている人

    童貞で何が悪いか! - 烏蛇ノート