ブックマーク / kananaka.hateblo.jp (7)

  • なゐふるに記す。 - kananaka's blog

    今週のお題東北地方太平洋沖地震 大地は震え揺らぎ、海は湧きたち、船は互いに打ち合い、家々は崩れ落ち、数々の寺塔はその上に重なり倒れた。王宮の一部は海に呑まれ、裂けた大地は焔を吐くかに見えた。それは、廃墟のいたるところに煙と火焔が現れたからである。 一瞬前に平和に楽しく生きていた六万の人々がいっせいに滅亡していった。この災禍を知覚する感覚も意識も失ってしまった人こそ、最も幸福な人ということができる。火焔は狂いつづけ、同時にこれまで隠れていた乃至はこの変事により解放された罪人の一群が暴れ回った。生き残った不幸な人々は、掠奪、殺戮、あらゆる暴行虐待にさらされた。 そしてこの突発した災厄の広汎にわたる影響について、あらゆる方面からいよいよ多くの詳密な報告が到着するにつけ、他人の不幸によって揺り動かされた人心は、自分自身や自分の家族の者に対する憂慮のためにいっそう悩まされた。まことに、恐怖の悪霊がか

    なゐふるに記す。 - kananaka's blog
  • 続・春になれば苺を摘みに。 - kananaka's blog

    2月17日付はてなブックマークニュース『シロップ煮やジャムはいかが?春の「いちご」をもっと楽しもう』の記事にて、拙エントリ『春になれば苺を摘みに』をご紹介いただいた。実は先のエントリでは、一記事あたりのボリュームを抑えるため、苺ジャムレシピについての公開を先延ばしにしていた*1ため、ご紹介記事のタイトルに添えるよう、これでも精一杯、絶不調の愛機*2に鞭打って、エントリを入力していたりする^^; 先日、開店してまだ間もないコンフィチュール専門店があると聞き及び、さっそく情報提供者と共に足を運んだ。目的はただ一つ、新しいレシピに向けてのアイディア入手。色とりどりの可愛らしい瓶詰めを前に、連れ共々ひとしきり嬌声をあげ、興奮冷めやらぬひと時を過ごした後、ふと「そもそも、コンフィチュールとは何ぞ」の疑問がムラムラ沸き起って来た。さっそく品定め中の連れに疑問をぶつけたところ、「それ、ジャムのオサレな

    続・春になれば苺を摘みに。 - kananaka's blog
  • 雪ぶどうのマリアージュ。 - kananaka's blog

    きのこと果物の美味い秋が過ぎ、季節は山眠る師走。来この季節は、ジャム師にとって骨休めの時期である*1。次の格始動の目安は、値を下げた苺、寒さが緩んでボケ始めた林檎が出回る晩冬〜早春。大量のジャム作りに備え、季節を問わず土鍋が登場する我が家でも、そろそろ土鍋が土鍋来の調理器具に復職できる季節となったわけだ。 そんなある日の昼休み、<カモ(またの名をブログの影の功労者・果樹園農家の後継氏*2。)>が<ネギ>を背負ってやって来た――もとい、いらっしゃった。 「冬ぶどうがあるんだっけぇ*3。―――要る?」 「要る!」 いつものごとく、二つ返事で商談は成立。相手も心得たもので、すかさず<ネギ>を差し出て寄こす。いちいち喜びと驚きを隠さない(隠せない)私の反応が、最近彼の娯楽と化しているんだそうだが、そんなモンはジロジロ観察せんでヨロシイ(汗) いそいそ包みを覗き込んでみると、暗紫色に輝く立派

    雪ぶどうのマリアージュ。 - kananaka's blog
    W_Katsuragi
    W_Katsuragi 2009/12/27
    スチューベン…そういやスーパーで見かけたなあ。
  • クマもよろこぶ、あさごはん。 - kananaka's blog

    夜なべして編みあげた吊し柿がよい塩梅に粉を吹き、同じ時期に仕込んでおいた柿酢*1の壺からは、白ワインにも似た芳香が立ち始めた。着々と冬支度が整いつつある当家であるが、今日は吊し柿の原材料目当てに「山の猿」となった道すがら収穫した、<謎のブツ(多分、あまり周知されていない物かと思われるので)>の加工談を試みたい。 話は記憶のVTRを巻戻し、山柿採集を終えた筆者が重たい籠を肩に負い、にんまりしつつ里山を下ってくる場面から再開される。あと十メートルも進めば人里に帰還できるという頃、神経がざわつくような不思議な感覚に襲われ、足を止めた。この不思議な感覚の正体はいまだ筆者にも不明だが、最近山歩き中にときどき襲われるもので、神経がそそけ立つような、心臓が変な動悸を打つような感覚に、当初は自身の体調不良を真剣に疑ったものである。しかし、そういうとき足許を確かめたり視点を動かすと、名も知れぬ植物や野生動

    クマもよろこぶ、あさごはん。 - kananaka's blog
  • ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog

    ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見放されるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体であるわたし達を見放すのです。 (『海を流れる河』"失語と沈黙のあいだ"より引用) そう日社会へ警鐘を鳴らしたのは、詩人石原吉郎(1915-1977年)である。彼は24歳で召集され、敗戦後ソ連のラーゲリ(強制収容所)にて抑留、その後スターリン死去による特赦で帰国を果たすまでの8年を、シベリア各地を転々と過ごした。懐かしい祖国の土を踏んだ時、石原はすでに38歳になっていた。 石原が身を投じた最北8年の歳月は、私の想像も及ばぬ世界である。しかし、彼が遺した散文からその苛酷さを想像することは可能だ。 十七のときに抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの<少年>が、声をころして泣いているさまに、私は心を打たれた。泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった

    ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog
  • 縛られるのは好きですか? - kananaka's blog

    女に生まれついたことが悔しかった。女であることが苦しかった。男に生まれ変わりたいと願った。でも今更、男になろうとは思わない。いくらさらしを巻き、体のラインの見えない服を着ようとも、髪を刈り、武道を習い体を鍛えても、そこまでが私の限界だった。進学先の下級生(♀)に告られ、教鞭をとった女子高で数通のファンレターをもらっただけだった。今となれば、相手の気持ちなど考えもせず舞いあがっていた、当時の自分の短絡さがイタイ。持病を抱えたとき、医師に妊婦並の高さの女性ホルモン値を指摘され、気力や気概のベクトルだけでは、生れもっての肉体を凌駕できないことを悟った*1。今は、それらの葛藤を過去形で語れる程度には、自身の性を諦観したつもりだ。 マジョリティであるだけで君臨しているケモノには腹が立つ。時に、ありえない詭弁と個人的妄想を弄し、「男ってさ」「女なんだから」という枕詞を駆使しては、殊さらに被害者を貶め、

    縛られるのは好きですか? - kananaka's blog
    W_Katsuragi
    W_Katsuragi 2009/12/11
    「最後の手段として、女には売れるものがある」…謝れ!海鳴館ビデオに出てるシャチョさんたちに謝れ!!
  • 「クズどもを追い払ってください」 - kananaka's blog

    「男って言うのはな」 「女ってね」 酔ってもいないのに語り始める人がいる。何故だかこちらを諭すように。 「男はプライドが高いんだから立ててあげないと」 「女の幸せは結婚だ」 「男は不器用なんだ」 「女は恋に生きる生き物だ」 ブラウン管の中のキャスターも、当たり前のように言う 「世の男性は必見」 「女性なら誰もが」 そこに語られている「男」って「女」って、誰だ? その人がそう思うのは構わない。企業がマーケティング戦略を立てることは否定しない。けれど、それを何処にも彼処にも応用し、一般化しないで欲しい。「一般化できる」と受け手に錯覚させないで欲しい。刷り込みしないでほしい。 テレビを見ないため最近の事情は知らないが、ひと昔前は主夫あるいは男性看護士を取扱うドラマや映画にさえ、幼い子どもに向かって「男の子でしょ」と、ことばを投げる大人が登場した。それが物語のアンチテーゼやアイロニーとして使われて

    「クズどもを追い払ってください」 - kananaka's blog
  • 1