ブックマーク / note.com/reading_monkey (6)

  • 批評はなぜ「えらそう」なのか――日本文芸評論と象徴権力の制度史|Reading Monkey

    序論――文芸評論の「えらそうさ」は、性格ではなく制度である日の文芸評論がしばしば「えらそう」に見えるのは、評論家に傲慢な人間が多いからではない。もっと根深い。日の近代文芸評論が、作品の評価者、文学史の編纂者、新人を承認する門番、時代精神の診断者、そして人間・近代・国家・文明を語る知識人という、異なる根拠と説明責任を要する複数の役割を一身に兼ね、その権限を出版社・文芸雑誌・新聞・大学・文学賞・座談会が相互に承認してきたからである。 ここでいう「えらそうさ」は四つの側面の複合である。断定形と巨大語による文体上の尊大さ。少数の作品から「日人」「近代」「文明」へ飛躍する認識論的な過剰。掲載・選考・正典化を左右する制度的な権限。そして「批評家」という肩書に付与される社会的威信。この四つは別物である――制度的に強力だが文体は慎重な評論家もいれば、何の権力もないのに尊大な文章を書く者もいる。稿が

    批評はなぜ「えらそう」なのか――日本文芸評論と象徴権力の制度史|Reading Monkey
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    WildWideWeb 2026/08/19
    キレキレで痺れた。「作家を裁くときは検察官。批判されたときは詩人。社会を語るときは哲学者。根拠を問われると随筆家。この変身能力こそ、制度が個々の批評家に相続させてきた最大の生存技術である。」
  • 理系にも分かる「空気を読む」ーー「全員が反対なのに誰も反対しない」を数理で解剖する|Reading Monkey

    はじめに——「空気」は日固有か、それとも普遍的な現象か「空気を読む」という言葉は、しばしば日社会に固有の文化として語られる。山七平は『「空気」の研究』において、日の組織的意思決定を支配する「空気」を、論理や責任の所在を超えて作動する一種の「絶対的支配力」として描いた[1]。戦艦大和の出撃のような、事後的に見れば不合理な決定さえも「あの場の空気では仕方なかった」と正当化される——山が抽出したような事態は、我々の周囲でも散見される。 しかし、文献を渉猟すれば、この「空気」に対応する現象は日の外でも繰り返し発見され、名前を与えられてきたことが分かる。多元的無知(pluralistic ignorance)、沈黙の螺旋(spiral of silence)、選好の偽装(preference falsification)、情報カスケード(information cascade)。呼び名は

    理系にも分かる「空気を読む」ーー「全員が反対なのに誰も反対しない」を数理で解剖する|Reading Monkey
  • 「文学部」はなぜ〈文芸〉だけの学部ではないのか——「文学・literature・letters」の語誌と大学組織史|Reading Monkey

    要約——「文学部」は文芸だけの学部ではない。1877年創設時の東京大学文学部は、史学・哲学・政治学と和漢文学から成っていた。稿は、英語 literature の語誌、ヨーロッパの大学組織史、日語「文学」の概念史という三つの異なる歴史を突き合わせ、この名称の広さが例外ではなく当時の通常の語義だったことを示す。ジョンソン『英語辞典』(1755年)とトッド版(1818年)で literature の語義は「学識」のみであり、大槻文彦『言海』(1889–91年)の「文学」にも〈文芸〉の語義はない。帝国大学令は「文科大学」の名を挙げるが、その内実を条文化してはいない。「文学部=文芸の学部」という理解は、後発の狭義を先行する制度語へ遡及的に投影したものである。 はじめに——三つの歴史を区別する「文学部」という名称は、現代日語では小説・詩・戯曲などの〈文芸〉を主として研究する学部、という連想を招き

    「文学部」はなぜ〈文芸〉だけの学部ではないのか——「文学・literature・letters」の語誌と大学組織史|Reading Monkey
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    WildWideWeb 2026/08/02
    自分は英語からは導出できない「人文科学」のほうに興味があって、「法科大学、工科大学」由来の「科」と「自然科学」の「科学」が何かの経緯で合体したのかあたりを調べてみたいと思ってます。
  • 「ながら」と「によって」のあいだ:エルサルバドルの治安回復を「人権侵害の成功」と呼べるか|Reading Monkey

    橘玲氏は、2026年7月20日付の記事「人権を侵害して治安を急回復させたエルサルバドルの『不都合な成功』」において、ナジブ・ブケレ政権による非常事態、大量拘禁、巨大刑務所CECOTへの収容、適正手続の制限を取り上げ、それらを契機として犯罪が大幅に減少したと論じている。^1 同記事の重要な功績は、リベラル政治思想が回避しがちな事実を正面から提示したことにある。 エルサルバドルの治安は実際に大幅に改善した。しかも、その改善は、自由と人権を深刻に制約する政策の下で生じた。治安を回復できない政治思想は、抽象的にどれほど高潔であっても、選挙において支持を失いうる。この警告は真剣に受け止める必要がある。 しかし、元記事の結論は、この重要な事実から一歩を踏み越えている。 政策に人権侵害が含まれていたという事実と、人権侵害が政策の有効成分であったという因果命題は同一ではない。 言い換えれば、 ブケレ政権

    「ながら」と「によって」のあいだ:エルサルバドルの治安回復を「人権侵害の成功」と呼べるか|Reading Monkey
  • 「フランス現代思想」とは何か、それはどこから来て、どこへ行くのか――2020年代から見た遺産目録と批判史|Reading Monkey

    「フランス現代思想」とは何か、それはどこから来て、どこへ行くのか――2020年代から見た遺産目録と批判史 0. この記事の問いと射程最初に断っておけば、「フランス現代思想」という括り自体が、当のフランスには存在しない、受容側の発明である——米国では「フレンチ・セオリー」として、日では1980年代のニュー・アカデミズムの流行を通じて広まった呼び名である(この来歴には第1節で立ち入る)。それでも稿がこの語を使うのは、断罪も崇拝もこの名の下で流通しており、括りを解体するにも、まず名指す必要があるからである。そしてこの主題には、全体をひとまとめに裁く語り方を招きやすいところがある。断罪する側はこの名で括られたものをまとめて棄却しようとし、擁護する側はまとめて弁護しようとしてきた。だが判定の単位が大きすぎると、議論は事実から離れていく。2020年代の現在から見えるのは、どちらの図式にも収まらない

    「フランス現代思想」とは何か、それはどこから来て、どこへ行くのか――2020年代から見た遺産目録と批判史|Reading Monkey
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    WildWideWeb 2026/07/07
    冒頭の「外側が設け、外側にしかない勝手な括り」指摘は、それだけで素晴らしい。レベル違うけど、日本語空間での「シャンソン」を思い出した。元々単に「歌」という意味なのでジャンル名とは思ってもらえない。
  • 「棍棒」としてのソーカル事件——寓話化された『知の欺瞞』史観の批判的再検討|Reading Monkey

    要約稿は、1996年のソーカル事件を、単なる「ソーカル 対 ポストモダン」の勝敗劇としてではなく、事件そのもの、『「知」の欺瞞』による事後的再解釈、そして後続の受益者による寓話化・棍棒化という三層の出来事として再検討する。Social Text 編集部の判断が重大な失敗であったこと、またラカンやクリステヴァらの一部テキストに科学・数学用語の誤用が存在することは否定しない。しかし稿は、そこから「ポストモダン思想全体の破産」「人文学の欺瞞」「科学と理性の全面的勝利」へと進む通俗的推論には、証拠の射程を超えた飛躍があると論じる。 とくに稿は、『「知」の欺瞞』的批判に含まれる複数の命題を分解する。すなわち、(A) 科学用語の誤用が存在すること、(B) その誤用が読者に深遠な科学性として受け取られたこと、(C) その印象が思想家の権威や影響力を高めたこと、さらに (D) 科学用語の濫用が彼らの

    「棍棒」としてのソーカル事件——寓話化された『知の欺瞞』史観の批判的再検討|Reading Monkey
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    WildWideWeb 2026/07/03
    ソーカルを経由していないどころか存在を知らない一般人にも直接に棍棒を与えているか。この事件を殆ど戒めとせず他の専門領域から文脈を欠いたまま用語を借用する研究者の問題。これらも議論の射程に入るのかな。
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