序論――文芸評論の「えらそうさ」は、性格ではなく制度である日本の文芸評論がしばしば「えらそう」に見えるのは、評論家に傲慢な人間が多いからではない。もっと根深い。日本の近代文芸評論が、作品の評価者、文学史の編纂者、新人を承認する門番、時代精神の診断者、そして人間・近代・国家・文明を語る知識人という、異なる根拠と説明責任を要する複数の役割を一身に兼ね、その権限を出版社・文芸雑誌・新聞・大学・文学賞・座談会が相互に承認してきたからである。 ここでいう「えらそうさ」は四つの側面の複合である。断定形と巨大語による文体上の尊大さ。少数の作品から「日本人」「近代」「文明」へ飛躍する認識論的な過剰。掲載・選考・正典化を左右する制度的な権限。そして「批評家」という肩書に付与される社会的威信。この四つは別物である――制度的に強力だが文体は慎重な評論家もいれば、何の権力もないのに尊大な文章を書く者もいる。本稿が

