ブックマーク / jp.rbth.com (6)

  • 帝政ロシア初の官能画家、コンスタンチン・ソモフのすべて(写真特集)

    コンスタンチン・ソモフ(1869~1939)は、ペテルブルクのエルミタージュ美術館の学芸員の家に生まれた。少年がすべての幼少期を芸術に囲まれて過ごし、美術アカデミーに入学したのは自然なことだった。

    帝政ロシア初の官能画家、コンスタンチン・ソモフのすべて(写真特集)
    YOW
    YOW 2019/12/02
    レーピンの弟子か、しかも画像で見ると絵は巧い
  • シューホフ・タワー:編みかごにヒントを得てロシアの設計技師が作りあげた伝説の建造物

    シューホフ・タワーは、ロシアの設計技師が手がけたもっとも素晴らしい建築物の一つとされるものである。ほぼ透明にも見える構造でありながら、信じがたいほどの強度を持つ構造物が他にあるだろうか?そしてそんなタワーを設計したのは誰なのか? シューホフ・タワーを設計したのは、ロシアの有名な技師で構造家で建築家のウラジーミル・シューホフ。当時、真の天才と言われた人物である。石油パイプラインや水道システムの設計で世界的な名声を得たが、代表作とされるのがここで紹介するシューホフ・タワーである。

    シューホフ・タワー:編みかごにヒントを得てロシアの設計技師が作りあげた伝説の建造物
    YOW
    YOW 2019/05/21
    「シドニーや広州のテレビ塔やドーハのAspireTower、また神戸ポートタワーなどもウラジーミル・シューホフの技術によって建てられた」
  • ロシア人が列車や船の中にまで教会をつくる理由(写真特集)

    大型揚陸船「オレクマ」の上に教会が作られた水上教会「聖ウラジーミル」。 キリル・ブラガ撮影/Sputnik 18世紀以降ロシアでは、布教活動のための移動型教会はよく見られ、常設の教会がない国中のあらゆる場所に運ばれた。今では移動型教会はもっと突飛もない形で作られている。 1.列車教会 19世紀中ごろ、ロシア帝国の時代に列車教会は現れた。十字架と三つの鐘から成る鐘堂が車両入り口がある切部分につくられており、プラットフォームから鐘堂に頑丈な鉄製の階段が架けられている。1917年まではいくつかの列車教会が北部ロシア、特にシベリアやウラル地方のために建造された。 記録画像:

    ロシア人が列車や船の中にまで教会をつくる理由(写真特集)
    YOW
    YOW 2018/08/24
    路上のオブジェみたいな祠があるのは知ってたが、乗り物移動式の教会がこんなにあるなんて(ああ今更)
  • レオン・バクスト生誕150年

    2月8日、レオン・バクストの生誕150年を迎える。ロシアNOWは、セルゲイ・ディアギレフが主宰した伝説の「バレエ・リュス」の主要な画家、デザイナーであった彼の生涯を振り返る。バクストは、演劇の舞台を永遠に変え、ココ・シャネルの栄光をすんでのところで奪うところまでいった。 バクストは、ロシアのいわゆる「銀の時代」の洗練された挿絵画家であり、素晴らしい肖像画家であり、傑出した舞台美術家であり、1910~20年代のフランスおよびアメリカのモードに影響を及ぼした。1866年、グロドノ(現ベラルーシ)の正統的なユダヤ人家庭に生まれ、名は、レイブ・ハイム・イズライレヴィチ・ローゼンベルクといった。響きがよく、どんな言葉でも簡単に表記、発音できるペンネーム「バクスト」が初めて現れたのは、その23年後。若き画家が、世界に自分を発信しようと思い立つ、最初の展覧会でのことだった。 洗練されたアール・ヌーボー

    レオン・バクスト生誕150年
    YOW
    YOW 2016/02/08
    バレエリュスのデザイナー
  • 写真で見るロマノフ一家の殺害場所 | ロシアNOW

    ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝一家が銃殺隊により殺害されたエカテリンブルクのイパチェフ館の謎を明かす年代記が出版された。 フォトジャーナリストで歴史家のヴィタリー・シトフ氏は、この館の悲劇的な歴史の研究に40年間を費やした。 「イパチェフ館。 文書および写真による年代記。 1877〜1977年」には数多くの調査資料やアーカイブ資料が収録されている。著者の主な目標は、最後の皇帝の一家の死をめぐる謎を明かすことにあった。 / 塀の向こう側に見えるイパチェフ館。 1977年9月。 シトフ氏撮影。 http://nl.media.rbth.ru/all/2014/0406/35985/_2.jpg イパチェフ館は、エカテリンブルクとスタヴロポリ(現トリヤッチで、北カフカスのスタヴロポリとは別の都市)の町の創立者で著名なロシア歴史家・地理学者だったヴァシーリイ・タティシチェフのダーチャ(別荘)跡地

    写真で見るロマノフ一家の殺害場所 | ロシアNOW
    YOW
    YOW 2014/05/14
    “皇帝一家が銃殺隊により殺害されたエカテリンブルクのイパチェフ館の謎を明かす年代記が出版された”
  • ロシア帝国の制服 | ロシアNOW

    ピョートル1世の制服=セルゲイ・ピャタコフ撮影/ロシア通信 ピョートル1世は1722年、文官と武官の役職一覧である「官等表」を承認し、ロシアの官僚機構をヨーロッパ式に体系化した。それぞれの官等に独自の制服があり、役人の役職と社会的立場が一目でわかるようになっていた。 児童から政治家まで  制服は男性の装飾品だ。若者にとって文官職を含む職務選定の、重要な要素となっていた。当時は新聞販売人にも制服があり、長めのダブルブレストの上着を着てケピをかぶり、小さなカバンを肩からかけていた。 制服は国のイメージでもあった。ピョートル1世の時代、ロシアの役人は“半未開の蛮族”であることをやめ、西ヨーロッパに合わせた盛装をして、ヨーロッパ人と対等に話すようになった。 ピョートル1世自身は国産品のみを身に着けていた。制服が国の紡織工業を生み、生産の発展を刺激し、国からの制服の大量発注が、製布や縫製の家内工業を

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