ブックマーク / www.kojinkaratani.com (7)

  • 柄谷行人【建築の不純さ】

    私は建築家でもないし、建築の理論家でもない。しかし、私が建築に関心をもつのは、プラトンが言ったように、建築家がテクネーの首領であり根元であるからというのではない。私が関心を持つのは、さしあたって言えば、それがあらゆる芸術の領域において、最も不純だからである。たぶんそれに匹敵するのは映画であろう。正確に言えば、それらが特別に不純なのではなく、他の領域のように不純さを隠すことが困難だからである。 建築は、その最もありふれた家屋の建築から、国家的・宗教的なモニュメントや都市計画にいたるまで、政治的・経済的な次元と結びついている。それは実際的な生活の必要に根ざしていて、且つ美的である。つまり、さまざまな次元がそこに輻輳している。われわれはそこから、たとえば美学的次元だけを純粋に取り出すことができない。それが美術との大きな違いである。もちろん、美術が純粋なのではなく、美術においてはあたかもそのような

    YOW
    YOW 2008/07/26
    >芸術のための芸術という形態:商品の世界では、諸物の差異(使用価値)に対し「無関心」のような態度と、「利益」のみが関心へ。←カント:芸術をそうあらしめるのは他の諸関心を括弧にいれる主観的能動性にある
  • 田中純【伝記(バイオグラフィー)の技法:ロザリンド・クラウス『ピカソ論』、ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』書評】

    ある芸術家の伝記(biography)を書くこと、つまりその人の「生(bios)」を文字にとどめようとする営みは、作品と生との関係をめぐる問いを含まざるをえない。現実と作品との単純な反映論に飽き足りなさを感じる伝記作家にとって、精神分析はそのための強力な武器となる。 一方、美術史にフロイトやラカンの理論を導入することにより、モダニズム美術の分析にあらたな展望を開拓してきた批評家がロザリンド・クラウスである。作品の形式的構造自体のなかに無意識の論理を読みとるその議論は、伝記的な応用精神分析とは対照的だ。しかし、そこで見出された構造は時として、汎用の図式と化してしまう危険を孕んでいた。 クラウスの『ピカソ論』(青土社)は、数多くの伝記がものされてきた画家を主題とし、精神分析を以前よりもはるかに慎重に援用しつつ、伝記という言説それ自体を反省的な考察の対象としている。ジッドの『贋金使い』をめぐる記

    YOW
    YOW 2007/03/08
    >キュビスムの内部から芸術を機械的に自動生産するピカソの「贋金作り」のメカニズム:「ピカソ伝記」の紋切り型の贋作こそ、生を自動生産の論理に従属させるモダニズムの「疚しい良心」を明かす徴候なのである。
  • 浅田彰【マラルメに始まる】 : 批評空間

    先月までパリのオルセー美術館で没後百周年を記念して開かれていたマラルメ展は、小規模ながら充実したものだった。詩人の生涯と業績が、かれ自身の草稿や遺品、また、関連する文学者や芸術家の作品によって、多面的に浮き彫りにされる。多少ともマラルメに詳しい観客にとって特に新しい発見はなかったし、マラルメの名前くらいしか知らない一般の観客にとって草稿の類を中心とする展示は難解に過ぎたかもしれない。とはいえ、カザリス宛の書簡(1867年5月14日付)で「幸い私は完全に死んだ」という言葉が薄い鉛筆書きで綴られているのを間近に見るとやはり感動を禁じ得ないし、そうして不在となった主体を空虚な中心として綺羅星のような語群が万華鏡のように散乱する作品――とくにあの『骰子一擲』を壁一面にプリントした展示は眩暈を起こさせずにはいない。 他方、この機会に刊行されたさまざまな書物について言えば、伝記的な研究が多く、理論的な

    YOW
    YOW 2006/10/22
    >1999年、オルセー美術館で没後百周年を記念したマラルメ展について:1950年代のブーレーズにとって影響→予め用意しておいた構成要素をアト・ランダムに並べ替えて万華鏡のように変容させるマラルメの『書物』の構想
  • 岡崎乾二郎【見ることの経験】

    YOW
    YOW 2006/10/22
    >ルネサンス期職人ブルネレスキの遠近法について:古典主義的な秩序の対称性(超越的な視点に還元される、)とは違う、ある対象の性質を別の位相にある対象へと変換する操作/受動的というより行為遂行的的
  • 岡崎乾二郎【見ることの経験】

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    YOW 2006/10/22
    パノフスキーの『〈象徴形式〉としての遠近法』(1924)批判:「透視図法とは客観的、幾何学的方法であるよりも前に一つの象徴的な制度、ドグマ」
  • 浅田彰【スーパーフラット・アイロニー】

    かねてから日の伝統美術の平面性と現代のアニメなどの平面性をつなげて「スーパーフラット」というコンセプトのもとに世界に売り出そうとしてきた村上隆が、そのコンセプトに基づいたグループ展*[1]を企画し、コンセプト・ブック*[2]を出版した。 村上隆は、1990年代半ば以後、日を代表するアーティストとして世界的に注目されているが、それはけっして不思議なことではない。日の伝統美術の平面表現をとことんまで洗練した上で、それをアニメの図柄で置き換えてみせるというのは、実に巧妙な戦略であり、また、その戦略を具体化してみせるテクニックとセンスも水際立っている。琳派の屏風のようにたっぷりと余白をとりながら、しかし、徹底してアニメ的な絵柄と色使いでスプラッシュが描いてあったりする、その妙技には舌を巻かずにいられない*[3]。そのスプラッシュは、アニメのキャラクターをそのまま立体化した少年や少女のフィギュ

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    YOW 2006/09/05
    >むしろ村上隆は、ラカン的な枠組みにそってリアルな裂け目(不在)を否認するかも。そこには不在というものがない。したがって現前と不在の間にある「幽霊」もない
  • 共同体の否定神学を超えて?/浅田彰

    ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』の最新版の翻訳(以文社)が去る6月にあらためて刊行された*[1]。これはナンシーの思考の核となる部分がはっきり現れたとして今も注目に値するだろう。 ナンシーの共同体論の鍵となるのは、『声の分有』(原著1982年刊:邦題は『声の分割』[以文社])で最初に提起され、『無為の共同体』で一般化された、「分有(分割=共有)」 partage という言葉である。人間はばらばらに分割されているが、まさしくそのように分割されているということを共有する、というわけだ。これはいわば不在の共同体/共同体の不在をもって実質的な共同体に代える、共同体の否定神学とでも言うべきものではないか。 だが、もう少し詳しく見てみよう。たとえば、死を考えるとき、この問題がもっとも先鋭な形で見えてくる。書に対する大澤真幸の簡潔な書評(「読売新聞」9月30日号)を引こう。「死は人を絶対

    YOW
    YOW 2005/12/08
    とりあえず。
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