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ブックマーク / blog.tatsuru.com (86)

  • マンガ脳 - 内田樹の研究室

    大学院で「マンガ」の話をする。 日語と日の宗教の「辺境性」についてのプレゼンテーションだったのだが、いつのまにか「日人の脳」の話から、マンガの話になってしまった。 日語は「漢字とかなを混ぜて書く」言語である。 漢字は表意文字であり、かなは表音文字である。 この二つを脳は並行処理している。 アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。 けれども、そのせいで変わったことが起きる。 表意文字は「図像」であり、表音文字は「音声」であるから、これを記号処理する脳の部位は当然違う。 失読症というのは、脳の疾患によって文字が読めなくなる症状である。 欧米語話者は失読症になると、まったく文字が読めなくなる。 しかるに、日語話者は二種類の病態をとる。 漢字が読めなくなって、かなだけが読める症状と、かなが読めなくなって、漢字だけが読める症状である。 それから、漢字を読ん

    Yagokoro
    Yagokoro 2008/06/18
    の面白い与太。面白いけど与太。(笑)絵だけの漫画家も話だけの漫画家も沢山いるよなあ。大暮だの西原だの…。大体、両方巧いから一流漫画家になれただけで、原因と結果が逆だ。
  • ひとりマス・メディア - 内田樹の研究室

    気がついたらアクセス数累計が1400万を超えていた。 東京都の人口を超えたわけである。 わお。 すごいね。 個人のブログで、それもどちらかというと身辺雑記のほかには小うるさい理屈をがみがみと書き連ねているだけのサイトに、これだけの累積訪問者があるということをすなおに慶賀したいと思う。 先日、ある雑誌のインタビューがあり、プロフィールのゲラを見たら、「アクセス数が100万を超える人気ブログ」という紹介がされていた。 「あの〜、1300万を超える」ですけど・・・と訂正を求めたら、ずいぶん恐縮されていた。 カウンターの数字を一桁読み間違えていたのである。 さて、このようなかたちで発信していることが、世論形成上どれほどの影響力を持ちうるのであろうか。 とりあえずわかるのは、それは発行部数1300万部の「」のそれとはまったく異質なものだということである。 1300万部のの読者は通常その数より多い

    Yagokoro
    Yagokoro 2008/06/13
    「せめて応募要項が出ている号くらい買えよ」と編集者が怒りに震えていた」わはは。編集者氏に同感。
  • 格差社会論(再録) (内田樹の研究室)

    今回の秋葉原の事件に「格差社会下層」に自分を「格付け」するという「物語」が深く関与していることにはどなたも異論がないだろう。 私は以前そのような「物語」が瀰漫することに、とりわけそれが「政治的に正しい」説明原理として称揚されることについてその危険を指摘したことがある。 『神奈川大学評論』という大学紀要に寄稿したものであるので、大学関係者以外には読まれた方はほとんどおられないであろうから、ここに再録する。 2007年の9月に書かれたものである。 この論考のせいで私は「保守系リベラル」「中道右派」とカテゴライズされることになった(ウィキペディアにはそう書いてある)。 ここに書かれたことのどこが「中道」なのか、どこが「保守」なのか、私にはよくわからないが。 善意の格差論のもたらす害について 内田樹 「格差」という語はそれ自体では価値中立的なものであるが、現在のメディアではこの語は中立的なものとし

    Yagokoro
    Yagokoro 2008/06/11
    面白いけど、団塊の既得権益として、年金問題をネグるのは卑怯じゃないの?
  • 日本語って変かも - 内田樹の研究室

    大学院のゼミ、今季は「日辺境論」である。 日の地政学的辺境性あるいは文明論的辺境性という補助線を引くことによって、日の「ありよう」を再解釈しようという野心的な企てである。 第一回目の発表はイハラさんの「外来語」。 これはなかなかすぐれた着眼点である。 というのは、日語は外来語に対して、世界の諸国語の中でも例外的に開放的な言語だからである。 原日語(大野晋先生によれば、もとはタミル語だそうであるが)に漢字が入り込み、さらに近代になってヨーロッパの言語が入り込んできた。 私たちの使う言語には、それらが混在している。 どうして、漢字カタカナひらがな alphabet が並存するような言語が成り立ちうるのか。 こういうことは、あまりに当たり前なので、ふだんは私たちはあまり考えない。 それについて考えてみる。 このタイプの混淆言語は巨大な文明圏の周辺部分に生まれる。 朝鮮半島もインドシナ半

  • 原則的であることについて - 内田樹の研究室

    原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている。 原則的にふるまうのはよいことであると言われるけれど、これは半真理であり、取り扱いに注意がいる。 というのは、原則的であることが必須である局面があり、原則的ではない方がよい局面があるからである。 その見極めがむずかしい。 例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。 無原則な親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。 あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。 子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。 そういう親は「乗り越えやすい」からである。 親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。 それでよいのである。 親はそのためにいるの

    Yagokoro
    Yagokoro 2008/04/07
    人間が実際的になれば矛盾や無原則はむしろ当然。「理論は知ってる」だけの頭でっかちはよつばちゃん以下のレベルなんだよなあ。
  • そろそろ春だけど - 内田樹の研究室

    昨日も今日も会議。 この一週間、数えたら会議が10回あった。 その10回目。 ほとんどの会議が同じ顔ぶれである。 大学教員には二種類がいる。 「会議に呼ばれる人」と「会議に呼ばれない人」である。 たいていの場合、「会議に呼ばれない人」はその会議での議題について、特段の意見がない方ではない。むしろ、当該論件について、きっぱりとした意見をお持ちの方が多い。 彼らが呼ばれないのは、その人が会議で発言を始めると、会議がたいへん長引くからである。 だから、「会議に呼ばれる頻度の高い人」は、「会議で長時間無言でいることに耐えられる人」か、「会議を早く終わらせる特技を有している人」かどちらかである。 私はご案内のとおり、会議で長時間無言でいることに耐えらるような度量の大きい人間ではない。 しかし、私が我慢できずに「ええい、めんどうだなあ。あのね、早い話が」と発言を始めると、場はたちまち収拾のつかない混乱