タグ

ブックマーク / www.tapthepop.net (7)

  • 「群青色の朝」と「鈍色の雨」という言葉で始まった日本語のロック~はちみつぱい「塀の上で」|TAP the SONG|TAP the POP

    2000年夏、”5人で歌う、5人の“ビューティフル・ソングス”というキャッチコピーがついたコンサート、「Beautiful Songs(ビューティフル・ソングス)」が開催された。 それぞれの活動の中で信頼関係を育んできた5人、大貫妙子、奥田民生、鈴木慶一、宮沢和史、矢野顕子による全国7都市を回ったツアーは大好評で、2003年の3月から4月にかけてふたたびスペシャル・ライブが行われた。 そのコンサートで全員が歌うハイライト・シーンに歌われたのが、はちみつぱい時代の鈴木慶一が書いた楽曲「塀の上で」だった。 矢野顕子が言った次のひとことは、今でも鮮やかな印象となって残っている。 「『センチメンタル通り』がある限り日音楽は大丈夫!」 はちみつぱいのファースト・アルバム『センチメンタル通り』は1973年11月に発売された。 今では“日語のロック”を切り拓いた不屈の名盤と言われているアルバムで、

    「群青色の朝」と「鈍色の雨」という言葉で始まった日本語のロック~はちみつぱい「塀の上で」|TAP the SONG|TAP the POP
  • 山口洋が語るボブ・ディラン

    TAP the POPにもコラムを寄稿していただいているHEATWAVEの山口洋さん。 先日、ご自身のブログに書かれたボブ・ディランに関する文章【blog上地獄アワー第九回、「BOB DYLAN特集」】が、“愛を感じる”とても素晴らしい内容だったので、TAP the POPで紹介させていただきます。 <ブログより一部引用> ーーーで、何と云っても「LIKE A ROLLING STONE」です。これは大変な曲なのです。ブルース・スプリングスティーンも「ママの車からこの曲が流れてきて人生が変わった」と。わたくすもです。聴いたのはママの車じゃないけど。 僕のとっても親しい友人がとても追い込まれていたとき。車に1枚のCDRが積載されていて、すべてヴァージョンの違うこの曲だったのです。つまり、ひとつの曲が彼の闇に光を照らし続けたってことです。転がる石のように。 もちろん、僕にとっても大変な曲なので

    山口洋が語るボブ・ディラン
  • ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分

    ボ・ガンボスを結成することになる前のどんとは、京都が生んだ伝説的なロックバンド、村八分に歌い方も詩も全部が染まったという時期があったという。村八分との出会いについて、こんな文章を残している。(注1) おれは京都でバンドを始めたばかりで、来る日も来る日もボロボロの練習場でガンガン演奏してたのだが、ある日真っ黒い服を着た髪のボサボサ不気味な兄ちゃんが、フラフラと現れ、おれたちの演奏に合わせてマラカスをシャカシャカ振り始めた。 何も言わずにヨロヨロして兄ちゃんは、おれたちのライブにもやってきてずっとマラカスを振って、終わると「ありがとう。楽しかったワ」と言って去っていった。「誰や?あの人は」と聞くと先輩の男が「あれは村八分というスゴイバンドのボーカルやったチャー坊という強力な奴だ。」と教えてくれた。 それからしばらく経ってローザ・ルクセンブルグを結成したどんとは、1985年にヨーロッパを3ヶ月間

    ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分
  • 今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集

    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、2000年1月にはボーカルのどんとも他界してしまいましたが、彼らの音楽は今もなお色褪せない輝きとメッセージを放ち続けています。 デビュー25周年を記念し、TAP the POPではどんとの20回目の命日でもある2015年1月28日から特集としてコラムを集中連載しました。 1989年のボ・ガンボスにフォーカスを絞った記事や、当時の活動を振り返る関係者へのインタビュー、またボ・ガンボスの音楽やどんとの綴ってきた歌が次の世代にもたらした影響など、さまざまな角度からバンドの魅力を切り取っています。豊富なライブ映像とともに、ボ・ガンボスの世界にぜひ触れてみてください。

    今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集
  • 何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

    隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年12

    何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆
  • 大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成

    1985年の6月15日、旧国立競技場で開催された『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』。 日もすっかり暮れた頃、西日の差し込むステージに登場したのは大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松隆の4人によって、12年ぶりの再結成を果たしたバンド、はっぴいえんどだった。 オールナイトニッポンのドラマ『俺たちがはっぴいえんどだ』では、再結成に至る経緯が語られているが、簡潔にまとめれば次のようになる。 「All Together Now」のチーフ・プロデューサーを務めていたニッポン放送の亀渕昭信は、出演してくれるミュージシャンを集めようと奔走していた。 そしてイベントを成功させるために、是非とも大瀧詠一に出演してほしいと考えて、福生にある大瀧の自宅を訪ねた。 ところが「当分ライブはやりたくないんだ」と、あっさり断られてしまった。 その日の夜、大瀧が自宅スタジオを掃除していて見つけたのは、はっぴ

    大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成
  • 大森靖子

    大森靖子(おおもり・せいこ)は、1987年愛媛県生まれのシンガー・ソングライター。SPEEDやモーニング娘。、浜崎あゆみを歌うのが好きだったという少女時代を経て、武蔵野美術大学入学と同時に上京。その後、弾き語りでのライブ活動をスタートさせる。アコースティックギターをフリーキーに鳴らしながら、感情をむき出しにしたような言葉を畳み掛ける彼女の歌は、聴く者すべての心に確実に爪痕を残す。 彼女自身が運営するレーベル〈PINK RECORDS〉よりミニ・アルバム『PINK』(2012年)、ファースト・フル・アルバム『魔法が使えないなら死にたい』(2013年)と、衝撃作を立て続けにリリース。ファースト・アルバムのツアー・ファイナルでは、事務所やレコード会社に無所属であるにも関わらず、渋谷クラブクアトロをソールドアウトにするという実績を残した。また、TOKYO IDOL FESTIVALなどのアイドル

    大森靖子
  • 1