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6月、再びリングへ…G・カブキ<5>(2014年05月30日) 1983年に(ジャイアント)馬場さんから、国際電話があって、「そろそろ帰ってこいよ」ということで帰国することになりました。実は帰国するのが嫌だったんですよ。 [全文へ] アンドレに毒霧で暴動寸前…G・カブキ<4>(2014年05月29日) デビュー戦の相手は山本小鉄…G・カブキ<3>(2014年05月28日) 偶然飛び出たトラースキック…G・カブキ<2>(2014年05月27日) 毒霧誕生秘話…G・カブキ<1>(2014年05月26日)
俺がアメリカに渡ったのは、1968年(昭和43年)4月のこと。 持ち物といえば、身の回りの品を詰めたトランクケース一つに、当時の外貨持ち出し枠いっぱいの200ドル(当時のレートは1ドル=360円)だけ。まず、ロサンゼルスで、マッチメイクを担当するブッカーをやっていた、日系のミスター・モトさんを訪ねたんですよ。そこで、ジャブ・ボーイ(job boy)、いわゆる負け役を2か月ほどやらされたんだ。 <待ちに待ったファンも多かろう。日米のマットを股にかけ、いずれの国でもトップを張ったレジェンド中のレジェンド、「Go for broke!」マサ斎藤の登場である。まずは、日本のプロレス界に嫌気がさし、26歳で単身渡米したときの話から始めてもらおう> 当時のカリフォルニアは、モトさんが仕切っていたロサンゼルスと、もう一つロイ・シャイアーがプロモーターとして興行を打っていたサンフランシスコの二つのテリトリ
【お宝写真館】写真は1962(昭和37)年8月19日、東京・渋谷のリキ・スポーツパレス入り口階段で撮影された一枚。「死神酋長」を名乗りネーティブアメリカン風の衣装に身を包んでいるのが、まだデビュー前の19歳のアントニオ猪木だ。 これはこの年の秋からフジテレビ系で放送された梶原一騎原作の少年向けテレビドラマ「チャンピオン太」の撮影中のもの。猪木青年は栄えある第1話「死神酋長」に、悪役第1号の死神酋長役として出演。ウルトラマンにおけるベムラー、仮面ライダーにおける蜘蛛男のような大役を射止めたにもかかわらず、どこか猪木青年の表情は不機嫌そうだが…。 劇中、死神酋長は怪力で郵便ポストや街路樹を地面から引き抜き、車に投げつけるなどの大暴れ。あらゆる食べ物を手づかみで食べ散らかす野蛮ぶり。 それほどの強さを誇りつつも、なぜか力道山との対戦では、キチンシンクを繰り出す程度で、力道山の容赦ないボディースラ
おれは、他人のことなんか興味ないんだよ。後輩が先にメインイベンターになったって、少しも気になんない。おれはファンに認められようと思ったことは一度もないんだから。 おれはプロレスラーに認めてもらえるプロレスラーになりたいと思ったんだよ。たとえば、自分がお医者さんだとして、素人さんから「あの先生、いい先生よね」と言われたいと思わない。たくさんいる医者から、「あの先生は腕がいい」と言われるような医者になりたいわけですよ。おれは、おれ。他人のことは、どうだっていいんだよ。そういったおれに、1回だけチャンスが回ってきて、それをつかんだということなんだよ。 <チャンスというのは、1984年(昭和59年)2月、札幌での長州対藤波戦前に花道で長州力を襲撃し、血だるまにした「テロ事件」を指す。この襲撃で、藤原は「テロリスト」の異名を得て、一躍メインイベンターとして注目を浴びるようになる。ちょうど35歳になる
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