それはつまりわたしの人生と(わたしに人生というものがあるとすれば)ほぼ同じ長さである。大げさに語り出したが、そのできごとはわたしとほぼ何の関係もない。ただ(わたしたち)はお正月のガザ虐殺に抗議したわけだがそれに比べれば地理的にはごく近くで起こった(そして継続している)ことだ。 祖父は幼い頃、日本に渡り、財を成した。資産家として羽振りをきかせ、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)傘下の京都商工会長を長いあいだつとめていた。 祖母は十三歳のとき日本に渡り、二十歳で日本共産党に入党。民族解放のために戦い、朝鮮総連京都市部の女性同盟委員長として活躍した。 帰国事業(北送事業)が始まると、祖母はみずから率先して祖父を説得した。そして親戚たちが頑強に引きとめるのをふりきり、その多くの財産をすべて整理して新潟から帰国船に乗り、北朝鮮に来たのだった。それは1961年のことだった。 (p15 姜 哲煥,(安 赫
![2009-06-06](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/06a15c64ba0ceec233d86d71001ebb29a9dcbf5d/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn.blog.st-hatena.com%2Fimages%2Ftheme%2Fog-image-1500.png)