飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。 天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある。 (村上龍 『限りなく透明に近いブルー』 講談社文庫 1978年) * * 弱冠24歳、武蔵野美大生だった村上龍が芥川賞を受賞した衝撃のデビュー作、『限りなく透明に近いブルー』の冒頭である。1976年当時、この小説はミリオンセラーを記録し、まさに社会現象を巻き起こした。 ――飛行機の音ではなかった。この小説は、書き出しのこの一文から、すでに小説全体が持つ世界観を暗示する。優れた小説は、最初から