史実を発掘した著者あさくらゆうさんは、同志社大学サイトの「新島八重と同志社」「繋ぐ想い」第16回 新島八重と川崎尚之助 ~会津に尽くした生涯~の中で「藩に迷惑をかけないため、その罪を一身に背負う決心をした」と美しく表現していますが、著書に描かれた史実を見ると、そんなキレイ事じゃ済まない感じです。 だって、同じ出石藩出身で、同じ時期に同じような塾で学んでいた加藤弘之は、明治期に入って帝大の初代学長にまで出世(弘之のほうが尚之助より身分が良かったのはたしかですが、明治期のお偉いさんには元・下級藩士も多い)。 他方、尚之助は結局のところ、困窮から満足な食事もとれず、明治8年、慢性肺炎のため39歳で亡くなっているのですから。 『川崎尚之助と八重』には晩年の尚之助の狂歌が紹介されています。 「今日はまだかてのくばりはなかりけり 貧すりゃドンの音はすれども」 西洋砲術を学び、教えていたほどの人が、こん