張 華(ちょう か、太和6年(232年) - 永康元年4月3日(300年5月7日))は、三国時代魏から西晋にかけての政治家・文人。字は茂先。范陽郡方城県(現在の河北省廊坊市固安県)の人。父は魏の漁陽太守張平。妻は劉放の娘。『晋書』に伝がある。 西晋を代表する名臣であり、成立直後の統一前の時代において、羊祜や杜預らと共に対呉の主戦論を主張した。統一後の武帝の代においては中央より遠ざけられたものの、恵帝の代になると朝廷に戻り、皇后の賈南風に与して、その同盟者であった司馬瑋の切り捨てを主導した。賈南風が実権を握ると宰相を務め、八王の乱で疲弊する国家を支えた。 生涯[編集] 魏の時代[編集] 幼い頃に孤児となったため生活に困窮し、羊飼いとなって生計を立てていた。やがて范陽太守の鮮于嗣から推挙され、太常博士に任じられた[1]。同郷の名士である盧欽もまた、朝廷の権力者であった司馬昭に対して張華を推挙し