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ブックマーク / takemita.hatenadiary.org (8)

  • Harm Principle - たけみたの脱社会学日記

    自由主義の基原則は、〈自由が大事〉である。ところが、この原則と並んで、あるいは、この原則に対する但し書として、〈他者に危害を加えるな〉〈他者に危害を加えない限りで〉が付加される。両者の関係は思われているほど簡単ではない。「他者危害原則」ないし「危害原則」という言い方を誰が始めたのかは知らないが、語の並びだけを見るなら、「他者に危害を加える(べき)原則」と読めてしまう。そうであるのに、「他者危害禁止原則」と言い直されないまま流通している。この辺りに、自由主義の秘密を探ってみることができる。 http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080220 少なくともミルに代表される通例の用法では、Harm Principleというのは「他者危害禁止」という原理ではない。〈他者に危害を加えるな〉という命令でも、自由は〈他者に危害を加えない限りで〉といった(自由に対する)制限でもない

    Harm Principle - たけみたの脱社会学日記
    atman56
    atman56 2009/07/22
    他者危害原理
  • シンガー「効用主義と菜食主義」 - たけみたの脱社会学日記

    Peter Singer, 1980, “Utilitarianism and Vegetarianism,” Philosophy and Public Affairs 9, pp. 325-337 著書『動物の解放』に対してトム・リーガンという人が「効用主義、菜主義、動物の権利」という論文を書いて批判したのに対して応答した論文。シンガーは「動物の権利」論じゃないんだね。効用主義ってことは帰結主義なんだから、よく考えたら当たり前か・・・。 今井道夫『生命倫理学入門 (哲学教科書シリーズ)』には「シンガーの動物の権利論」(p. 110 ff.)ていう節があるが・・・。シンガー先生が何といっているかというと 『動物の解放』ではほんの少しだが「権利」という言葉を使った。が、そのほとんどはad hominemな議論の文脈だし、それ以外のところで権利という言葉を使ったのは先にも述べたとおり、大衆

    シンガー「効用主義と菜食主義」 - たけみたの脱社会学日記
  • 安藤馨『統治と功利』 - たけみたの脱社会学日記

    統治と功利 作者: 安藤馨出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 2007/05/30メディア: 単行購入: 2人 クリック: 55回この商品を含むブログ (80件) を見る久々に定価でを買ってしまった。でさっそくハーサニ関係のところをチェック。 我々はvN-M公理系を満たす選好に対してvN-M効用という基数的表現を与えることが「できる」のであって、与えなければならないわけではないのだ。つまり、vN-M公理系を満たす選好に対してその序数的情報を保持したままvN-M効用でないような基数表現を与えることができるのである。(p. 224) えーと、それはできません(笑)。 (私は、「選好を表す基数効用」という経済学者のよく使う表現に疑問がある――それゆえvNM効用は序数効用と呼ぶべきだと思う――が、以下では著者の言葉遣いに従う。参照「von Neumann-Morgenstern効用関数は基数

    安藤馨『統治と功利』 - たけみたの脱社会学日記
  • ホルスター「社会の道徳」 - たけみたの脱社会学日記

    承前 http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070606/p1 来年ルーマンの『社会の道徳』が刊行されるにあたって、編者のホルスター先生が2007年7月10日に同じ題名の報告をしたそうな。サイトに原稿が上がっていたので翻訳してみる(途中)。(粗訳段階なので「である」が多い不格好な文章ですが。) デートレフ・ホルスター 「社会の道徳」 1. 他の社会学者の議論の検討 2. 今日の社会 3. 象徴によって一般化したコミュニケイション媒体 4. サブシステムと道徳 5. 相互行為、組織、社会 ← いまここ 6. 二重偶然性と道徳の必要 7. 価値 8. システム理論のサブ理論としての倫理学 1. 他の社会学者の議論の検討 ある社会の中で、道徳がどんな機能を担っているか。社会学者はこういう問いの立て方をする。これは哲学者には馴染みの薄い発想である。哲学者は、道徳とは何で

    ホルスター「社会の道徳」 - たけみたの脱社会学日記
  • 『社会学的啓蒙 第1巻』序文 - たけみたの脱社会学日記

    こんなん上げてみる。序文は現在(第七版)でも、初版と第三版のみ。 初版序文 実践的応用についても理論的統合についても、社会学の将来は最高度に不確実で、この先どうなるかまったく分からない。これまでの蓄積にしても、その応用にしても、確実な知見というものがまったくない。これは経験的研究にも言えることではあるが、やはりなんといっても純粋理論的な考察について当てはまる。こういう状況では、包括的理論を断念してしまうのも無理はないのだが、とりあえず試論的なものを書いてみるという手もないことはない。それをやってみるとして、そのための発信形式としては雑誌論文が適当であると、ここ数年考えてきた。しかしいろいろなところに書き散らしていると、入手するのも困難だし、全体としてどうなっているのかもよく分からないし、相互の帳尻合わせも難しいし、批判もやりにくい、ということになってきた。この論文集で、そうした問題が解決さ

    『社会学的啓蒙 第1巻』序文 - たけみたの脱社会学日記
  • これがルーマンとデリダ(とベンハビブ)の邂逅の瞬間だ! - たけみたの脱社会学日記

    だいぶ前に、ルーマンとデリダ(とベンハビブ)の邂逅の様子のレポートを訳しました。 http://d.hatena.ne.jp/takemita/20060524/p2 http://d.hatena.ne.jp/takemita/20060525/p1 で、今回、その文章に添えられていた写真をスキャンしたわけです。それがこれだ! うーん、白黒なのが惜しいなあ。

    これがルーマンとデリダ(とベンハビブ)の邂逅の瞬間だ! - たけみたの脱社会学日記
  • ○○という面があることは否定しないが、むしろ××というべきだろう - たけみたの脱社会学日記

    こういう文が出てくると、それ以上読む気をなくすよねー どちらも面なんだってことに気づいているのかなー どちらの面についても、それぞれを重要視する枠組みというのがありえて、結局は特定の枠組みを自分は採用しているということを、暗に言っているだけなんだよねー 必要なのは、なぜその枠組みが重要かって議論なんだけど、それが明示的に論じられることって少ないよねー こういう、概念とか言葉によって対象を〈具体的に〉包括できると思っている人、たぶん人は自覚していないのだろうけど、とりあえずパーソンズの「経験論」批判を復習してください。 そういう意味での経験論をとらない(分析論でいく)点で(そして、とりあえずその点にかぎり)、ルーマンの機能主義はパーソンズのつくった流れの中にある。 ところがルーマンのシステム概念はそうではない。パーソンズの分析論の最も重大な適用対象が、パーソンズのシステム理論(=理論体系)

    ○○という面があることは否定しないが、むしろ××というべきだろう - たけみたの脱社会学日記
  • ルーマンメモ - たけみたの脱社会学日記

    http://d.hatena.ne.jp/takemita/20061016/p1#c1161074402 contractioさんにもご同意いただいたところで、ルーマンの論文の書き方を見ると、 (1)既存理論の問題点を具体的に指摘 (2)それが既存理論の思考前提における問題に由来することを指摘 (3)その問題をクリアした代替理論を提唱 (4)その理論代替の意義をちょっとだけ示唆(←これが最終節) というのがスタンダードプラン。問題点は、(2)と(3)の内容がいつも一緒。(4)が薄すぎ。(2)がいつも同じなので、(1)と(2)の間の関係に「それほんとかよ」という疑問を禁じえない。(1)と(2)(3)の間のスケール(議論の一般性の水準)の違いが大きすぎる。(4)がいつまでたっても示唆の域を出ない。

    ルーマンメモ - たけみたの脱社会学日記
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