大河ドラマ『麒麟がくる』ですっかり有名になった織田信長の父と言えば? そうです「織田信秀」ですね。 高橋克典さんの好演が強く印象に残っている方も少なくないでしょう。 ※以下は織田信秀の考察記事となります
![三法師こと織田秀信は信長の孫~運命の「清州会議」後はどう生きた?](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/8ec35b79d2c5cf569103d904da8eb23680326809/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fstorage.bushoojapan.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2022%2F06%2F3b0e77677fdf6cad669aac9be9482196.jpg)
再評価の高まる斉明天皇は土木工事がお好き飛鳥時代の斉明天皇とは――。 奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の発掘調査で、被葬者と判明し、2010年に一躍脚光を浴びた女帝である。 実のところ、彼女が天皇になる可能性はほとんどなかった。 父は茅渟王(ちぬのおおきみ・敏達天皇の孫)。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ・欽明天皇の孫)。 数多いるライバルに打ち勝つほどの血統でなかったためだ。 しかし、名前しか伝わらない最初の結婚相手・高向王(たかむくおう)と別れて舒明天皇(じょめいてんのう)と再婚すると、人生は急展開をみせた。 夫の死後、ついに最高権力を手中にする。 皇極天皇の即位である(後に重祚して斉明天皇)。 ただし、息子の中大兄皇子(天智天皇)が天皇になるまでの中継ぎというイメージが強く、影の薄い存在ではあった。 興味深い逸話が『日本書紀』にある。 斉明天皇が多くの犠牲を代償に
「親の心子知らず」とよく言われますが、その逆もまた然り。 特に豊臣秀吉が天下人になってからは「妻と子供をワシの手元に差し出さんかい!」という人質の方針が固められ、子供たちは父親とロクに顔も合わせず育っていきました。 これでは親子の愛情もすれ違いになりがちで、本日はそんな戦国~江戸期のホームドラマなお話です。 明暦四年(1658年)6月8日、宇和島藩主の伊達秀宗が亡くなりました。 名字からお察しの通り、あの伊達政宗の息子(長庶子)です。 どこの家でも同じ話なのですが【長男かつ側室生まれ=長庶子】というのは立場が非常に難しいもの。 ヘタに野心を持ったり家臣に担がれれば成敗されかねないし、かといって沈黙を突き通すには中々プライドが許しません。 しかも伊達秀宗の場合、生まれたのが天正十九年(1591年)という秀吉の死&関ヶ原ちょい前のことなので並々ならぬ苦労もしています。 例によって判官びいきの血
映画やマンガ、小説でも、不動の人気を誇る時代劇。 時に鮮烈に、時に清廉に、歴史を駆け抜けた古き良き日本人の姿に共感し、現代のわれわれも居住まいを正すような気持ちになりますものね。 が、しかし、何気なく出てくる時代劇のシーンの中には「本当はありえない」ことがたくさんあるのもまた事実。 もちろん、現代人にもわかりやすくとっつきやすいようにワザとそうしている場合もあれば、慣例化した表現にそもそも誤りがある場合もあり、一筋縄ではいかないものだったりします。 ここでは、主にサムライがしでかしがちな「ありえないシーン」について見てみましょう。 その1 剣を構えると「チャキン☆」って音がする「おのれ父のかたき!覚悟!!」 【チャキン☆】 なんて、剣を構えたときに金属音が鳴り響くイメージがあったりしません? もう「いかにも」って感じで情感たっぷりのザ・時代劇エフェクトだと思います。 しかし、実際には構えを
名前が似ているだけで共通点は少ない実は二・二六と五・一五という2つの事件は、共通点のほうが少ないです。 「軍人が起こした」ことと「庶民の生活改善が目的に掲げられた」ぐらいのもので、実行犯達が所属していたところから当日の流れ、処罰までが全く違います。 まずはここを最初に頭に入れておくとわかりやすいかもしれません。 共通の背景としては、当時の日本がとんでもない不況だったことがあげられます。 どのくらいだったかというと、金融恐慌・関東大震災の上にアメリカ発の世界恐慌まで食らってしまい、にっちもさっちも行かないほどの状態でした。 さらに冷害による凶作と昭和三陸地震(1933年)までくらってしまった東北地方の農村部では、生活のためやむをえず娘を人買いに売り、それでも食料が足りず欠食児童が多発するなど、江戸四大飢饉に匹敵する事態だったといいます。 もちろん政府も黙って見過ごしたわけではありません。 輸
なぜかというと、国のトップである天皇にはそれなりの経験が求められていたからです。 さらに、天皇という地位は一度ついたら死ぬまで決して誰にも譲られることはないという大原則があったからです。 (ちなみに、史上はじめて譲位したのは、これよりあと、7世紀中頃の女帝・皇極天皇=大化改新のクーデーターの時の天皇です) つまり聖徳太子が天皇になるには、推古天皇よりも長生きしないと即位できる可能性はゼロだったわけです。 実際には、太子は622年に49歳で死に、推古は628年に75歳で亡くなっています。 女性は長生きだってことです。 中2で父を亡くす 「聖徳太子」という呼び方(尊称)と聖人君主的なイメージは、死後50年以上たってから作られたものということが最近の研究で分かっています。(最近時々話題になる「聖徳太子はいなかった」説はこのことを言っているのです) では、後世に作られた伝説を一枚一枚はがしていくと
1600年といえば、関ヶ原の合戦。年号覚えるのが苦手な人も、これだけは覚えていることだろう。結果的に家康と石田三成の対決となっているが、そもそもは家康VS会津(福島県)上杉の戦いが始まり。 東北が舞台である以上、我らがヒーロー伊達政宗さんも黙っちゃいない! とくに会津は、一度は手に入れながら、「大人の事情」(豊臣秀吉に召し上げられた)で手放してしまった因縁の地。そこで政宗は、家康側につくことにした。 わずか50騎で仙台を目指して・・・ 急に開戦が決まったため、そのとき大坂にいた政宗はわずか50騎で仙台を目指さねればならなかった。途中の福島県・中通りは上杉が支配していおり、まず通り抜けは不可能。そこで、海側の浜通りを通ることにしたのだが、ここも戦国時代から何度も戦ったライバル・相馬氏の支配地だった。 さて、どうスリ抜けるべきか。合戦は目前に迫っており、他の街道や海路などの迂回は使えない。もは
伊勢神宮は、正式には「神宮」と呼びます。 神宮は一つの社だけを意味するのではなく、二つの相並び立つ「内宮」(皇大神宮)と「外宮」(豊受大神宮)の2社を中心に、別宮、摂社、末社、所管社を含めた125社からなっています。 八百万の神々が具現化したような聖地なわけです。 通常の参拝方法としては、まず食の神様豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭る外宮から参拝し、次にバスなどにのって、天皇家の祖先神であり太陽神のアマテラス(天照大御神)がまつられる内宮を参拝します。 とはいえ、とくに年末年始に両社を移動するのは大変ですので、多くの方は内宮のみという選択のようです。そのため内宮の参道であるおはらい町にあるおかげ横丁は日本有数の観光地となっています。 江戸時代以来の伊勢まいりの賑やかさと一転して静寂な境内を訪れることで、ふつうの神社以上にとても清々しい気分になれるのです。 心のふるさと伊勢神宮七つの秘密
清水寺とは意外なところから・・・ きのう(2013年8月7日)、読売新聞の文化面にて、衝撃の新説が紹介されていた。 今年、岩波新書で刊行された「信長の城」の中で、城郭考古学者の千田嘉博・奈良大教授が展開したものである。 これまでの城は石垣は「見せる」ものと考えられていたのだが、安土城ではこれを黒い板を全面に張り隠していたというのだ。 つまり安土城は清水寺のように張り出して、その上に天主が乗っかっていたことになる。この建築技法を「懸け造り」という。 建物のバランスは悪そうだが、信長の美的感覚も、われわれの想像のナナメ上をいっていたのだ。 富永商太氏が千田教授のもと描いた安土城の復元図 詳細は新聞や本で確認していただきたいのだが、Bushoo!Japan編集部が驚いたのは、このニュースを富永商太さんのフェイスブック(下のメッセージ)で知ったことだ。 本日の読売新聞全国版朝刊社会面に安土城西
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