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ブックマーク / bushoojapan.com (6)

  • やっぱり信長は長宗我部の「四国切り取り」を認めていた!裏付け史料解明

    土佐の豪族から始まり、わずか一代で四国全土を統一した長宗我部元親。 この偉業を成し遂げるにあたり元親が事前に織田信長とよしみを通じ、いわゆる「四国切り取り(平定してもOK)」の確認を得ていたことの裏付けとなる史料が判明したと、林原美術館と岡山県立博物館が共同で発表した。 裏付けがとれた史料とは、林原美術館に所蔵されている「石谷家文書」で、長宗我部元親の家臣・中島重房が天正6年(1578年)、明智家の石谷頼辰・斎藤利三に宛てたもの。 その中には、織田信長から長宗我部元親に対して送られた「四国を平定してもよい」という朱印状への謝意が綴られており、送り主の中島は、阿波勝瑞城を落とせば淡路や讃岐も決着を付けられるという見通しを持っていたことが明らかになった。 史料の内容は赤外線で解析され、天正6年の時点で織田家と長宗我部家の関係が良好だったことを裏付ける貴重なものとなっている。(なお能寺の変は天

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  • 日本人が知らない伊勢神宮七つの秘密~初詣でお賽銭投げたらダメ

    伊勢神宮は、正式には「神宮」と呼びます。 神宮は一つの社だけを意味するのではなく、二つの相並び立つ「内宮」(皇大神宮)と「外宮」(豊受大神宮)の2社を中心に、別宮、摂社、末社、所管社を含めた125社からなっています。 八百万の神々が具現化したような聖地なわけです。 通常の参拝方法としては、まずの神様豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭る外宮から参拝し、次にバスなどにのって、天皇家の祖先神であり太陽神のアマテラス(天照大御神)がまつられる内宮を参拝します。 とはいえ、とくに年末年始に両社を移動するのは大変ですので、多くの方は内宮のみという選択のようです。そのため内宮の参道であるおはらい町にあるおかげ横丁は日有数の観光地となっています。 江戸時代以来の伊勢まいりの賑やかさと一転して静寂な境内を訪れることで、ふつうの神社以上にとても清々しい気分になれるのです。 心のふるさと伊勢神宮七つの秘密

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  • 海もないのに『塩尻』 その地名の由来をご存知ですか?【昇流は歩いてく】 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    以前、長野県を訪れた時、「塩尻」という地名を見かけました。 長野県で「塩尻」と聞くと塩尻市を思い出すのですが、この「塩尻」という地名は、小さな地区の名前など割とあるんだそうです。 ただ、「海のない長野県で、塩に尻なんて不思議な名前だなぁ。」と思っていて、どうしても気になったのでそのことを上田市にある図書館で調べてみました。 塩交易の終着点が産業発展の源に 実際、上田市にも「上塩尻」なる地名が存在します。 ずっと、調べていくとその理由がわかってきました。 信濃国と呼ばれていた長野県。今でもそうですが、海に面していません。 [map addr="長野県上田市塩尻" zoom="7"] そこで、越後や越中、そして尾張や遠江などの日海や太平洋に面したところから手に入れておりました。 塩を運ぶ道は「塩街道」と呼ばれ、様々な交易が行われたり宿場町が出来たり、物流と産業発展の源となりました。この塩街道

  • ココが変だよ時代劇~本当は「ありえないシーン五選」はこれです

    映画やマンガ、小説でも、不動の人気を誇る時代劇。 時に鮮烈に、時に清廉に、歴史を駆け抜けた古き良き日人の姿に共感し、現代のわれわれも居住まいを正すような気持ちになりますものね。 が、しかし、何気なく出てくる時代劇のシーンの中には「当はありえない」ことがたくさんあるのもまた事実。 もちろん、現代人にもわかりやすくとっつきやすいようにワザとそうしている場合もあれば、慣例化した表現にそもそも誤りがある場合もあり、一筋縄ではいかないものだったりします。 ここでは、主にサムライがしでかしがちな「ありえないシーン」について見てみましょう。 その1 剣を構えると「チャキン☆」って音がする「おのれ父のかたき!覚悟!!」 【チャキン☆】 なんて、剣を構えたときに金属音が鳴り響くイメージがあったりしません? もう「いかにも」って感じで情感たっぷりのザ・時代劇エフェクトだと思います。 しかし、実際には構えを

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  • 危うく米英に奪われそうだった幕末の領土問題~小笠原諸島の領有をどう主張したか

    文久元年(1862年)12月19日、江戸幕府が小笠原諸島の領有を宣言しました。 小笠原諸島とは、父島、母島、硫黄島など30数島からなる東京都小笠原村の行政区分で、自然豊かな南国風景の島として知られます。 しかし、江戸時代においては1675年以来、国としての対応はしておりませんでした。 要は放置されていたわけです。 幕末期においても同じで、幕府の支配力は及んでおらず、下手をすれば英米にとられそうになっておりました。 そこで、この1862年に外国奉行の水野忠徳らを咸臨丸で派遣し、領土宣言をしたのです。 現在とちょっと違うのは、すでに英国と米国が人を送り込んでおり、幕府は後手に回っていたのに、意外とすんなり主権が得られたことでしょう。 もちろん距離的には日が一番近いので当たり前っちゃ当たり前なんですけど、帝国主義・植民地バンザイな当時の常識からすればそんなもん言い訳になりません。 しかも幕末の

    危うく米英に奪われそうだった幕末の領土問題~小笠原諸島の領有をどう主張したか
  • 「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件

    なぜかというと、国のトップである天皇にはそれなりの経験が求められていたからです。 さらに、天皇という地位は一度ついたら死ぬまで決して誰にも譲られることはないという大原則があったからです。 (ちなみに、史上はじめて譲位したのは、これよりあと、7世紀中頃の女帝・皇極天皇=大化改新のクーデーターの時の天皇です) つまり聖徳太子が天皇になるには、推古天皇よりも長生きしないと即位できる可能性はゼロだったわけです。 実際には、太子は622年に49歳で死に、推古は628年に75歳で亡くなっています。 女性は長生きだってことです。 中2で父を亡くす 「聖徳太子」という呼び方(尊称)と聖人君主的なイメージは、死後50年以上たってから作られたものということが最近の研究で分かっています。(最近時々話題になる「聖徳太子はいなかった」説はこのことを言っているのです) では、後世に作られた伝説を一枚一枚はがしていくと

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