ブックマーク / bungologist.hatenablog.com (60)

  • 里の記憶、SOGs75 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    産土神に帰省の挨拶でもしようかと長く傾斜のきつい石段の参道を登った。「白山神社」はいつ訪れても神々しい雰囲気を醸し出している。昔は蒼とした森の中に佇んでいたが周辺の森が伐採されて今はやや神々しさも薄れた感があるが、それでも苔むした拝殿前の広場は相変わらず瑞々しくて美しい。 参道を登りきると両脇に狛犬が睨みを利かし、拝殿前に出ると見事な石灯籠(1843年寄進、旧匠村文化財)が両脇で空間を引き締めている。境内にはトガやイチイカシ(旧匠村文化財)の巨木がまるでこちらを睥睨しているようだ。 神殿には御神体の尊の高さ40cmほどの十一面観世音、右側に阿弥陀、左側に薬師如来の三体、左側の箱には天神様の木像、立像と座像各一体、右側の箱には奇妙な形をした石灰石が三体(白山神社の御神体)納められている(そうである)。 神社の立つ小高い山の平尾根を散策していると石造の鳥居跡を見つけた。半倒壊した石柱に

    里の記憶、SOGs75 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2023/12/02
  • 笑わない佐伯の歴史5、王朝時代の佐伯の主都 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    1.中心地 古来、族長や首長が住む場所はその生活圏の中のもっとも恵まれた地(料生産、諸資源、物流等)であったろう。防御に優れる地であれば尚良い。そういう場所が国や地域や集落の中心地に選ばれて来たはずである。もっとも古代王権はその中心地を頻繁に変えた。それ以外にも理由があったからである。 2.遷都 天皇が居住するところ、政治の中心が「都」だが、古代には天皇(大王)が変わる度に新たに都を建設し遷都した。飢饉や疫病等、多くの災禍は怨霊の作用と信じられていた時代である。遷都はそれとの縁切りの意味があった。先代の死は宮に穢れを残す、時に怨霊も跋扈する。だから清浄の地を求めて遷都するのである。 もっとも中国の「条坊制」のような大規模な都城の建設は「藤原京」以降であり、それまでは都といっても天皇(大王)の宮殿が主体の小規模なものであった。それにしても短期間での再三の遷都は大変な出費を伴ったであろう。

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    bifum 2023/11/09
  • "おおみわ"で混沌 Y3-07 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    「大神」は”おおみわ”と読む。「大三輪」とも書く。「豊後大神氏」とも無縁ではない。但し、この場合は”おおが”と読む。 豊後大神氏の源流を調べたいと思っていた。「大和大神氏」を辿ることになる。すると「大神(大三輪)神社」に行き当たる。そこは「記紀」の世界への入口でありそれを避けては進めない。記紀はそれ以前の古代の歴史の抹殺、あるいは改竄をやっている。記述内容の曖昧性を拭えない。だから素人には始末におえない。案の定、足を踏み入れて混乱の極致である。 豊後大神氏には宇佐神宮を創建した「大神比義」(568年)と「豊後介大神良臣」(886年)の流れを汲む二系統がある。後者が来的である。但しこちらもその家譜は改竄(権威付け)をやったが為に同様に一貫性を欠き曖昧である。 「祖母嶽大明神」の化身である大蛇と見目麗しい姫君「華の御(宇田姫)」との間に産まれた「大神惟基」が豊後大神氏の家祖となる。所謂、「

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    bifum 2023/08/05
  • 鹿狩(国木田独歩と豊後の国佐伯)Y2-14 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    「歎かざるの記」は国木田独歩が大分県佐伯市に赴任する半年程前に起筆した日記である。よって佐伯地方の情景や独歩のそこでの思索状況も実に細やかに綴られている。小説の題材も多く散見される。 旧坂邸(独歩の寄宿先) 当時の佐伯地方をこの日記やその小説に探索してみる。佐伯地方に拓きたい各逍遥路に物語を加えたい一心からでもある。手始めに「鹿狩」から見る。 日記には鹿狩に行った事実だけしか書いていない。よって小説の主人公(少年)に独歩を仮託し、独歩の具体的な鹿狩体験を小説から推察する。少年は「中根の叔父さん」に鹿狩に誘われた。 舞台は「鶴見半島」である。まさに「しし垣ルート」が重なってくる。時期は赴任した年の12月初と冬である。空気は澄みきっている。一行10人、「桂港(葛港)」から鶴見半島の「猿戸」まで海上5里を帆船で行った。夜半出発し明け方着く。帰路は海路と陸路に分かれ、独歩は陸路「浦代峠」を越えて

    鹿狩(国木田独歩と豊後の国佐伯)Y2-14 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2023/02/12
  • 逝きし世の面影と豊後の国佐伯 Y2-13 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    「少年の頃、私は江戸時代に生まれなくてよかったと気で思っていた。だが今では、江戸時代に生まれて一生を過ごした方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。」 昨年亡くなった、名著「逝きし世の面影」の著者渡辺京二の言葉である。このを再読した。きっかけは故郷「豊後の国佐伯」を巡り歩き、この地を愛した国木田独歩の想いが重なってきたことにある。何故にそれほどまでに佐伯地方の自然と人々が独歩を魅了したのか、何故に独歩にとってこの地無くして信奉するワーズワース理解はありえなかったのか、考えた。ワーズワースは工業化を突き進む英国の自然の相貌の変化を憂い、自然に絶対的価値を見出した人であり、独歩は自己の生存を感じるのは自然こそ必要だと考えた人である。物質的豊かさと精神的豊かさの何れに価値を置くかということでもあろう。 その時、何だかこのを読み返したいと思ったのである。独歩は、巡り

    逝きし世の面影と豊後の国佐伯 Y2-13 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2023/02/07
  • 日豊(日向と豊後)ぶらりぶらり - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    9月14日以来、およそ2カ月間、ブログを更新していない。故あって10月より故郷に帰省中である。そのついでに「地元の自然と歴史について再検証」をやっている事がその理由の一つである。これまでにブログにアップしたテーマの実地検分ということであるが、これがなかなかに奥深く筆を執る暇がない。加え、9月より仲間と地元の活性策について何か貢献出来ないかと身の程知らずの活動を始めたこともブログに手が回らない理由である。 地元関係者との対話を通じて見えなかったものが見えてくることがある。地域活性と言えば、日の地方のどこでもが否応なく取り組まざるを得ない喫緊の課題であるが、実際には国主導による地域創生策の地方による焼き直しであり、地方にはそれに同調することにより補助金が振舞われるという巧妙な関係で成り立っている。つまり日全国同じ政策に沿って似たような地域活性策をやっている。差別化されていない同じ製品で過剰

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    bifum 2022/12/06
  • もう一つの西南戦争 Y2-12 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    日豊(日向・豊後)の境界線にある陸地(かちじ)峠から望む可愛岳(えのはだけ:728m)の夕景である。その麓に官軍との最後の戦い、「和田越の決戦」に敗れた西郷隆盛が逃れ宿営した長井の地がある。ここで隆盛は全軍の解散布告を出す。豊後での西南戦争が終結した日でもある(1877年8月16日)。翌、官軍に包囲された隆盛はこの可愛岳突囲により道なき日向の山岳を伝い鹿児島に落ちていく。 その地に向かってこの峡谷に矢ケ内川が流れていく。是非、訪れてみたい渓流でもある。佐伯地方にも残る鮎漁の伝統漁法である「ちょんがけ」が伝わり同じ伝統文化を共有してきた隣人の地である。また一方で陸地峠の激戦に官軍、薩軍の兵たちが血を流した川でもある。陸地峠は西南戦争で有名になったが元々は日豊の人々の流通を担った峠道にある。今はもう誰も通うことは無い。戦跡碑が侘しく立つのみである。 西南戦争は日最後の内戦である。1876年の

    もう一つの西南戦争 Y2-12 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2022/09/14
  • もののけ考 Y2-11 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    もののけ(物の怪)とは未だその正体が分からない段階の霊魂のことを言うらしい。昔は病気の原因はすべてもののけが原因と信じられてきたことは周知の通りである。疫病だけは神による病でこれはお祓いや禊で退散してもらった。 人間は身体と霊魂で出来ていて死ぬと霊魂が遊離して天上(黄泉の国)に上る、その霊魂が成仏出来ない場合にもののけとなる。だから当然怨念を持っている。怨念のその対象に病が発生する訳である。それが過激であれば遂には殺されてしまう。だから仏教が到来する以前は遺体や遺骨はさして重要なものではなかった。土葬も火葬もされず放置されていた訳で高貴な人さえ墓が残っていないのが当たり前の世界だった。京都の三条河原が遺棄された死体に溢れていたのは普通の光景であったのである。山や川は誰のものでも無い無主の領域でもあったのだから。葬式仏教の煩瑣加減を思うと何だかそっちの方がすっきりしないでもない。 さて、霊魂

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    bifum 2022/09/06
  • 賤ケ岳の戦い余聞 Y2-10 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    佐伯地方は山が蝟集している。山は海に達しリアス式海岸を造形している。その地勢は耕作地に乏しい地であった事を示す。生きるにはとても厳しい。ただ海を介しての外部との交流だけは古くより活発であった。 一方、土地が限られているとは言え人々はこの海岸沿いに点在する島には積極的に入植しようとは考えなかったようである。山や岬を切り開く方が未だましだと考えた(かどうかは定かではない)。 佐伯地方には、海岸の北側からかつて佐伯藩に属した保戸島、佐伯湾に大入島、大島、南に下がって蒲江地区に屋形島、深島、の中小の島がある。これらの島に格的に人が住むようになったのは江戸時代前後からではなかろうか。佐伯藩がこれらの島へ入植(移住)を奨励した事実が残っている。その前から人が住んでいたとすれば海の道を辿って外部からの落住者が密かに住み着いたとも想像される。このリアス式海岸一体には陸上交通が途絶した入江が多い。そこにも

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    bifum 2022/09/01
  • リーフデ号を奪還せよ Y2-09 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    既成事実とか実効支配とかになってしまうとその原状回復は殆ど不可能に近い。 1600年、関ヶ原合戦の半年後に豊後にオランダ船リーフデ号が漂着した。乗船していたウィリアム・アダムズ(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(耶揚子)は徳川家康の外交顧問としてその後の江戸幕府の外交政策に影響を与えた。スペインの世界分割(宣教と植民地化)の為の日への足掛かりの芽を摘み、家康をして自由貿易を標榜するオランダ、英国を選択せしめた。家康の絶大な信用を得、三浦按針は三浦半島に250石の知行地も得た。ヤンヨーステンは現在の東京駅近傍に屋敷を与えられ八重洲の名を残した。誰しもが日史に学んだことである。 問題はそこではない。リーフデ号の漂着地にある。その地は豊後臼杵ではなく豊後佐伯であるという事実であり、歴史誤認があるにも関わらず歴史学界が一向にこれを顧みない点にある。取るに足らぬ些細な事という勿れ、地元にとっては極め

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    bifum 2022/08/20
  • おらが国 Y2-08 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    では、7世紀、律令時代に定められた60余国(令制国/旧国)が概ね現在も行政体として地理区分として継承されている。都道府県境が当時と変わっていない。つまり1,300年間、これの総体としての日の国境も大きくは変わっていない事を意味する(例外的に周縁の蝦夷、隼人の地があるが)。これは珍しい事ではないだろうか。 世界では国境は常に変更されて来た。歴史的にそれが当たり前なのである。日の特異性は、常に歴史の表舞台となってきた大陸の周縁のしかも島国という立地条件にもよるのかもしれない。イギリスも概ね同様である。そこでは人や物が大規模には交錯しない。 今でも日では人々は出身地(かつての旧国、あるいはその中の旧藩)を語る時、”おらが国、私の国では”と言う。ついでに自慢したがる。近代国家として使われている国に近い意識が人々の心の奥底に未だ残っているのであろう。幕末までは紛れもなくこの日の中にそれぞ

    おらが国 Y2-08 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2022/08/16
  • 南海部(みなみあまべ)の夢物語 Y2-07 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    豊後佐伯地方(旧南海部郡)では山に登ればどの山からも豊後水道とその向こうの四国の見事な眺望が容易く手に入る。16世紀末の最後の国人領主佐伯惟定も、その後に入封して来た毛利高政も、それぞれの山城から同じ光景を眺めた。海に出よう、海で生きよう、と思ったに違いない。現在でもその光景と人々の思いは変わらない。 佐伯地方は豊後水道に面し、内陸部は重畳の山々が途切れる事のない稜線を形成し、この地方をぐるりと囲んでいる。その内懐に人々が暮らして来た。海岸線は、かつては「佐伯の殿様浦で持つ」と言われる程に、兎に角、魚が取れて仕方がなかった。魚が回遊してくるといずれの湾も海水面が盛り上がるほどであった。稜線が何故か漁の巻き網や定置網に見えてこようというものだ。 かつてのこの地方へ来着した多くの人々の如く、現在においても外から人流を誘い込むような仕掛けがないものか、そういう夢物語である。もっとも肝心の魚は今や

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    bifum 2022/08/09
  • 家老はつらいよ Y2-06 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    いつの世も部下と上司の関係は面倒なものである。武家の世であってもそうは違いがないのではなかろうか。江戸期各藩の経営(責任者)は名目的には藩主という事になろうが実質的には家老が担って来た。それでも明治維新で幕藩体制が終了するまで270年間、今で言う創業者一族(藩主)の経営体であった訳である。綻びが生じない方がおかしい。無論、その上位で幕府が目を光らせていた訳で藩主の独断や苛政への抑制装置が無かった訳ではない。改易されないことが経営の至上命題であった。 一方、参勤交代で藩主は隔年で一年の長期出張、地元不在となる。経営は国家老が一身に担わざるを得ない。これが実質的な経営者である。ただ、藩主同様に世襲職であるところが現在の創業者経営と違う。領民にとっては世襲藩主、世襲家老の組み合わせが最悪でない事を祈るしかない。 我が佐伯藩の経営者(藩主、家老)を下表に一覧する(増村隆也・佐伯郷土史より)。初代高

    家老はつらいよ Y2-06 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2022/07/31
  • 鎌倉で想ったこと - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    東京方面から鎌倉に入るには通称金沢街道を使う。意外に勾配もありカーブの多い峠道である。1956年に開通した。近くの”朝比奈切通し”のある昔の六浦道に重なる。こちらは1241年に開通した。材木座海岸の和賀江島港の外港であった金沢(区)の六浦津に繋ぐ為に造った。執権泰時も切通しの開鑿に加勢に出たそうである。 鎌倉をぐるりと囲む稜線を切り開いて造った鎌倉への入り口を鎌倉七口、あるいは7切通しという。朝比奈切通しもその内の一つである。現在でも鎌倉に入るには昔ながらのそういう道を通らないと入れない。標高はさして高くは無いが見事にぐるりと稜線が鎌倉市街を囲んでいる。守るに易く攻めるに難い土地である事がよく分かる。城壁を巡らす代わりに稜線を利用したまさに中国の城市のようなところである。 地質的には陸から海底に流れ込んだ土砂などが堆積して隆起した地勢で砂岩や泥岩で出来ている。だから加工しやすい。鎌倉五山も

    鎌倉で想ったこと - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜
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    bifum 2022/07/27
  • 城山と豊後佐伯城 Y2-05 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    「秋の半ば過ぎ、余は紅葉狩りせんとて城山の頂に登り、落葉蕭々の間、しばしば耳を澄まして風の行方を追ひ、我知らず古跡一種の寂寞に融け、行々楽しみたり。 三十年の昔は、ここに封建の古城立ちぬ。城市の民は月と日とを灘山の肩に迎へて、これを古城の背に送りぬ。 今は残すところ、ただその石垣のみ。石垣の上、建物ありし跡は今なほ平坦なり。雑草茂り、松生ひ立ち、灌木入り乱れ、荒廃に任せり。満山の樹木暗く茂りて、幽径縦横、猿のごとき少年も時に迷ふことありと聞きぬ。 余が初めて佐伯に入るや、まづこの山に心動き、余すでに佐伯を去るも、眼底その景容を拭ひ去るあたはず。この山なくば余にはほとんど佐伯なきなり。 夏の初め、雨晴れたる朝、蝉の鳴くを初めてこの山に聞きて、ここにやうやく日の光の夏らしさを覚えたることありき。 一犬深夜に市街の一端に吠ゆれば、城山の山彦ただちに答へて、これを他の一端に伝ふ。我これを冬の暗き夜

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    bifum 2022/07/22
  • 存城と廃城(豊後佐伯城サグラダ・プロジェクト考) Y2-04 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    前回、”廃仏毀釈”により貴重な文化財が破壊されたことを書いた。今回は同じ明治政府による”城郭取壊令(廃城令)”を見る。 今やどの地域においても城の欠片でも残っていれば貴重な観光資源となり文化財となる。その建築遺構が現存でもしていればもう大変な騒ぎになる。何しろ徳川時代に一国一城令によりそれまで3,000近くあった城が破却され一気に200以下に減少してしまったのである。現存する天守は僅か12城しかない。それだけに城郭は人々を魅了して止まない。日においては如何に素晴らしい大自然でも城郭遺構にだけは適わないのではないかとさえ思う。 下表に城郭の存亡史を整理した。一国一城令は確かに非情であった。多くの大名家が領内の支城を破却せざるを得なかった。この時に名城の多くも消滅してしまったのである。残された城にもその後不幸が2回ほど訪れる。明治の城郭取壊令と第二次大戦における米軍の爆撃である。ここでも多く

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    bifum 2022/07/21
  • 神様仏様 Y2-03 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    中国文化大革命(1966年から10年間続いた)は中国五千年の貴重な文化財を悉く破壊してしまった。革命とはかくも下劣な事をする。それだけならまだしも文革による犠牲者(死者)は40万人あるいは2千万人は下らないとまで言われる。毛沢東の政治的意図を盲信的に実行する狂信的な紅衛兵による弾圧、殺戮は手がつけられなかった。 最近ではタリバンによるバーミアンの石窟遺跡の破壊がある。狂信というものは民衆側ではなく権力側に発生の基があるということを肝に銘じておかねばならない。 皮肉な事に中国文化財の多くは文革前の国共内戦で蒋介石の国民党が台湾に持ち去っていた為難を逃れたという幸運もある。中国各地には今でも当時のままの歴史遺跡は殆ど残っておらず、例え復元していても安っぽさを拭えない。旅の詩情も台無しで再訪する気にもなれないのである。 さて、日もこれを笑えたものではない。明治維新である。同じような事をやっ

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    bifum 2022/07/18
  • 故郷忘じ難く - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    老母が独居する実家に二ヶ月ほど生活した。何しろ僻地である。この間、インターネット接続が断たれた。Facebookを通じて何とか社会との接点は確保出来たが、それも不要なほどに故郷の日々は濃密で人とと風土は機微に富んだ。 後輩曰く、”僻地は宝の山と海”である。これに優る表現方法を今は知らない。豊後佐伯地方は都会からはとても遠い土地である。横浜から神戸まで車で走り、そこからフェリーで九州は豊後に渡る。飛行機で行けば済む話ではない。母の住む山里に公共バスは日に2だけ、車をもっていかないと生活が出来ないのである。 気付けば滞在中一日平均40kmを走っていた。豊後佐伯地方の国県農林道の全てを踏破したようなものである。流石に登山だけは自前の脚に頼った。この地方の海と山と渓谷のほぼ全てを知悉した気がする。相変わらずの素晴らしい自然景観があった。 一方で多くの事を考えさせられもした。何しろ書を捨てて実地

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    bifum 2022/07/13
  • フィトンチッドの森 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    豊後佐伯地方の山々の多くは決して高山ではないが、肌が綺麗で絨毯のように柔らかく深々とした森林に覆われている。 森に入ると心身が癒される効果がある。かつて森林浴ブームが起こり、そこでヨガや瞑想を行えば更に効果が増加すると言われた。このことは科学的にも検証されている。木々が放つその馥郁たる芳香に要因がある。 植物は脅威(害)に晒された時に人間や動物のように、戦い、あるいは逃げたり、あるいは隠れる事が出来ない。その為に生み出した防衛手段が、攻撃手段という事も可能だが、その葉や枝や幹からの生合成された化学物質の発散である。傷付いた体を修復する為でもある。抗菌力、殺菌力を持つ。これをフィトンチッドという。昆虫や動物による害から逃れる為に、フィトン(植物、ギリシャ語)がチッド(殺す、ラテン語)するからそういう。 胡桃の木の下には植物は育たない。松や杉の下では堆肥は出来ない。腐敗菌が減菌するからであ

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    bifum 2022/05/09
  • 日本百名山、日本百低山 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜

    国境の長い峠道を越えると山国であった。豊後佐伯地方はそういうところである。 阿蘇山の大噴火による溶岩流が形成した大野平原から眺めるとその南側には見事なまでの山陵の壁が立ち塞がっている。その向こう側は山また山である。そこにある。 厚さ100kmはあろうかという地球表層のプレートの活動境界に付加体と称される地盤がそこに形成された事による。一般的にプレート境界では、広がる、狭まる、ずれる、という運動が起こる。これが地殻変動や火山活動を引き起こし大山脈や弧状列島を造る。造山運動である。プレートが狭まるところはその沈む込むプレート境界面の圧力で堆積物が剥ぎ取られ陸側に付加されていく。付加体である。おかげで地表は皺くちゃになってしまう。佐伯地方はそういう地盤の上にある。 温泉県大分にあって幸か不幸かこの地には火山がない。マグマも噴出を諦めた訳である。代わりに豊後の北部でこれ見よがしにマグマが続々と噴出

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    bifum 2022/05/05