↓この点については共感する。だから引用しました。↓ そして障害者というのは、言うなれば手持ちの資源がとても制約されていて、かつかつで生活せざるを得ないので、生計に関する意思決定がほとんど自動化して(選択の余地を意識化する暇なく目の前の課題にぶつかるしかないから)、計画とか合目的性とかを改めて吟味する余裕がないだけで、本来はそれを、もっと資源に余裕のある健常者以上にシビアにしっかり考えなければいけないのにそれが出来ていないだけなのだ。言うなれば、金持ちは財テクをするのに、低所得者は節約を考える精神的余裕を失ってしまっているような状態ですな。だけれどもどちらもやるべきことはマネジメントで、しかも資源が乏しい障害者のほうが、実はもっとずっと緻密にやるべきなんですよ。 それが出来ていないとどうなるか、というと、障害者福祉に関わる人たちが「自腹で」取り敢えず破綻を避けるために持続可能性がないスタイル
「障害がある」ということについて。 にトラックバックいただいた。 障害がどうの - S嬢 はてな 軽度とか中度とか重度とか最重度とか、本当はそういうことじゃなくて、どこに困難があるかってことなんじゃないかと思うんだけど。そしてその困難があることに関して理解が欲しいんだけどな。 それで更に考えたこと。 不登校も、ひきこもりも、ニートも、うつ病も、発達障害も、名前が出てくると、まず言われるのは「甘えるな」「甘えてる」。 これは日本特有の反応なんだろうか? 「それなりに大変らしい」という理解が進んでくると、「甘えるな」と言われる回数は減るけれど、一定の人は理解せずに言い続けるだろう。「そんなものは昔はなかった。甘えるな。」と。 その次に根強く残るのは、「でももっと大変な人がいるでしょう。あなたは恵まれている。」かな。相談機関の窓口にこういう人がいるとつらい。 でも、立場的にいろいろな人を見ている
玉井 邦夫(たまい くにお) 山梨大学教育人間科学部障害児教育講座助教授 (財)日本ダウン症協会理事長 臨床発達心理士・臨床心理士 私が担当するこの欄も最終回になりました。振り返れば、最初に意気込んでいた構想とは外れ、迷走を続けてきた気がします。当初、心因性の行動異常である情緒障害と、知的障害などの器質性の障害とをつなぐ視点でさまざまな角度からエピソードを紹介したいと思っていました。しかし、実際には時々の話題に引きずられる形で連載の趣旨を貫徹できなかったような気もします。 最終回の今回は、おおげさに言えば「私たちの社会と『障害』」ということを考えたいと思っています。 私は、(財)日本ダウン症協会の理事長という立場にあるため、時折、シンポジウムなどで親の立場の体表者として発言を求められることがあります。その際、しばしば「当事者団体の立場から」と話を振られます。確かに私自身
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