【北京=竹内誠一郎】中国紙「新京報」などによると、上海の復旦大学の研究グループが11日、「三国志」の英雄、曹操(155~220年)の子孫の遺伝子染色体を特定したと発表した。 曹操を巡っては、河南省安陽県で2009年末に発見された陵墓と遺骨について真偽論争が起きたが、DNA鑑定で決着する見通しだという。 研究グループは09年から、家系図で曹操の子孫とされる曹姓の男性280人などから約1000件のサンプルを採取。絞り込みをかけた結果、一部に共通して非常に珍しい型の染色体を発見。安徽省で出土した曹操の大叔父の歯からも同じ型の染色体が検出されたため、曹操一族に特有の型であると断定した。 曹操については、漢代の丞相(じょうしょう)、曹参の子孫だったとの説や曹操を支えた夏侯一族の出身だったとの説があった。しかし、今回の結果により、曹操と曹参、夏侯一族とはともに血縁はないことが立証可能という。同大学は今
【新華社石家荘7月14日】河北省邯鄲市永年県竜泉村の村民は先ごろ、北京と深セン(土+川)を結ぶ京深高速道路から西に約100メートルの地点で、残土の整地を行っていた際、古代の墓に用いられた磚の破片を発見した。連絡を受けた現地の文化財担当者が現場の調査を行い、墓志銘、鎮墓獣、彩色陶俑、鉄剣、瑪瑙の珠、玉器の破片、金製の指輪など26件の遺物を発見した。 出土した墓志銘の記載によると、墓主は男性で、姓は游、名は松、字は士祥で、広平郡の出身だった。北朝東魏の天平年間(西暦534~537年)に大承相諮議参軍を務めた。先祖は周王朝のカク(左は妥の女を寸に、右は虎)国とカイ(邱の丘を會に)国の国公を務め、周の天子から「游」姓を賜った。游松は天平4年(西暦537年)に47歳で死亡し、翌538年、この地(易陽県苟山旧塋)に埋葬された。驃騎大将軍、冀州刺史などの名を贈られた。
その四のつづきです。 今回は討論会の質疑のメモからまとめに入ります。ICレコーダーでもあれば、もう少ししっかりと内容を起こせるのかも知れませんが、会場で聞いたときのメモ書きを清書しただけなので、断片的でよく分からないと思います。そのへんご容赦を。 潘偉斌:最初盗掘坑から曹操の墓に入ったとき、中には3mほど土がたまっていた。 規格性の高い墓だというのはすぐ分かった。 洛陽の後漢墓との比較で時代が分かる。 古い盗掘坑は西晋時代のものか。 新しい盗掘坑は2006年。 石牌に副葬品の名がすべて残る。 夏侯惇墓があれだけの規模ということはありえない。 石圭の大きさは最大のもの。 郝本性:人骨が後室にあったのは、後室が生活の場、前室が宮殿に見立てられるから。 磚室墓には水が侵入しやすく、人骨が散乱しやすい。 しかし曹操墓のものは揃っていないので、盗掘者の侵入によって動かされた可能性が高い。 西高穴村1
その三のつづきです。 今回は張志清氏の発表を紹介します。漢代の諸侯王の墓制の変遷を通して、曹操の墓の位置づけを論じます。なにやら専門的にすぎる内容ですが、「崖洞墓+黄腸題湊(黄腸木→黄腸石)→磚券墓(外側に回廊→前中後三室構造)」という流れを押さえておけば、なんだそれだけのことをたらたら言ってるのかという話でもあります。 漢代陵墓考古と曹操高陵 張志清(河南省文物考古研究所) 漢代考古学において、一般の中型・小型の墓の研究資料は非常に豊富だが、漢代の帝王陵墓の研究は考古資料が制限されており、一般の墓ほど豊富とはいえない。近年になって多くの諸侯王墓が発掘され、現在確認できる漢代の諸侯王陵墓は当時の十数カ国で計百基ほどある。皇帝陵が未発掘なため、これらの諸侯王墓が漢代陵墓の研究に豊富な資料を提供している。 一、前漢諸侯王墓 前漢の諸侯王墓には、山を穿つ崖洞墓と“黄腸題湊”という竪穴墓の二大類型
その二のつづきです。 郝本性氏の発表です。曹操の墓からは「魏武王」の石牌をはじめ60数点の石碑が出土しています。そこにみえる副葬品から曹操の実像に迫っていく内容です。 曹操高陵出土文物の研究―安陽高陵出土石牌刻銘にみる曹操のすがた― 郝本性(河南省文物考古研究所) 曹操は、中国の歴史上で著名な政治家・軍事家・文学家である。唐代以前は栄誉を受けていたが、宋代以後は誹謗を受けて、奸悪でずるい小人の典型人物に貶められ、悪しざまに言われるようになった。これは、曹操の複雑で豊富な人生経歴や、多様な性格・流儀、そして政治・軍事・文学上の功績から、人々の高い関心を集め絶えず評論されたからであろう。ただし『三国演義』での悪人ぶりが知れ渡っており、史書『三国志』の著者陳寿の記した“非常之人、超世人傑”という評価は継承されなかった。真実の曹操の姿は、考古発掘で得た実物資料だけが語ることのできるものである。たと
その一のつづきです。 いよいよメインディッシュの登場です。曹操墓の発見と認定の経緯の解説です。曹操墓発掘現場の隊長さんこと潘偉斌氏の発表を紹介します。一連の騒ぎではマスコミへの露出もけっこう激しかった人ですね。 曹操高陵の発見と発掘および初歩研究 潘偉斌(河南省文物考古研究所) 一、曹操高陵の歴史伝説 曹操の墓の位置については、古くから様々な伝説があった。清の蒲松齢『聊斎志異』の許昌城外説、清の沈松『全健筆録』に引く『堅瓠続集』の漳河の川底説、近代の鄧之斌『骨董瑣記全編』の彭城鎮説などが見られるが、いずれも信用に足るものではない。 また“七十二疑冢説”があり、『輿図必考』に磁州(現在の河北省磁県)に七十二か所の曹操の偽の墓のあったことが記される。清末民国初にはこの地域は荒れ果て、“七十二疑冢”の多くが盗掘されるが、出土遺物などからみて、多くが北魏・北斉時代の王公貴族墓であった。その中には東
地元・愛媛大学で東アジア古代鉄文化研究センター第3回国際シンポジウム『三国志・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―』 というのがあったので、行ってきました。 http://www.ccr.ehime-u.ac.jp:80/aic/sousousympo.html 白雲翔・潘偉斌・郝本性・張志清の4氏を招いて、曹操の墓(西高穴村2号墓)の発見を中心に、近年の漢魏の考古調査研究を概観するような内容でした。 さて、ブログ記事化するにして、聞いたことの10割を3時間で忘れるトリ頭の記憶を頼っても仕方がないので、99パーセントかた予稿集を参照しました。長文のわりにブログ主は手抜きです。5回くらいのシリーズになる予定。 まず第一回は白雲翔氏の発表から。 漢末・三国時代考古およびその新展開―北方魏を中心に― 白雲翔(中国社会科学院考古研究所) 一、はじめに 三国時代は中国史上で大きな転換期であり、魏・蜀
曹操の墓(河南省安陽市西高穴村2号墓)出土文物刻字の字釈については公式の発表が不充分なため、不完全なものにとどまっているようです。 ネット上でまとめたところは、たとえば http://tieba.baidu.com/f?kz=897537531 のようなところがあります。 不完全には変わりありませんが、うちでもちょっとまとめてみようと思います。おそらくは誤字脱字がありますので、コメント欄などで指摘いただければ幸いです。 1.圭形石牌に見える刻字 「魏武王常所用挌虎大戟」 「■■■■■用挌虎大戟」 「魏■■■所用/搏■■椎二枚」 「■■■■■■挌虎短矛」 「■■■常所用挌虎短矛」 「魏武王常所用挌虎大刀」 「■■■常所用長犀盾」 2.六角形石牌に見える刻字 「漆唾壷二」 「鐞萊蔮一」 「刀尺一具」 「文鍤母一」 「白縑畫鹵薄游/觀食厨各/一具」 「紫綺大■一/■補自■」 「漆漿臺一」 「白練
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く