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2013年9月5日のブックマーク (2件)

  • 康煕帝諸皇子の王府3

    と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が

    康煕帝諸皇子の王府3
  • 《嘯亭雑録》と礼親王・昭槤

    そんなこんなで、清代王府の位置を知る過程で《嘯亭雑録》を買ってみました。サラッと読むと、やはり歴史の話題を中心とした随筆ですね。神田信夫『清朝史論考』山川出版 の中にそのものズバリ、「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」という論文が載っているのですが、コレを読むとどうやら《嘯亭雑録》はかなり歴史的価値の高い随筆みたいですね。個人的にはいきなり〈太宗讀金史〉の項で辮髪と言うか満洲の衣冠に触れていた点で評価高まりましたし、その次が〈設間誅袁崇煥〉だったりするので、序盤からおお!って思いますわね。 で、その著者である昭槤ですが…この人、九代目・礼親王なんですよね。礼親王・ダイシャンの後裔です。漢語版Wikipediaの記事によると、乾隆41(1776)年の生まれで、道光13(1833)年に病没しているようです。礼親王の王位には、嘉慶10(1805)年から嘉慶20(1815)年までの十年間ついていた

    《嘯亭雑録》と礼親王・昭槤
    bitheiboo
    bitheiboo 2013/09/05
    『嘯亭雑録』はパラパラめくってるだけでも面白い!