赤井直正は荻野秋清へ年初の挨拶に黒井城に出向いていた。その後、荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取ってしまう。原因や経緯については諸書にさまざまな説があり、正確な理由は不明であるが、同年8月5日付の『赤井時家書状』によれば、赤井直正は再び朝日城に預けられていることが確認されているので、父荻野正元が放った刺客ではなかったかと思われている。 赤井直正は悪右衛門直正と名乗り、黒井城を拠点に戦国武将の道を歩み始める。 赤井直正は細川晴元派であったと思われており、晴元の没後もその政敵である三好氏との戦いを続けた。永禄7年(1564年)に多紀郡へ侵攻、翌永禄8年(1565年)には、三好氏方の松永久秀の弟、松永長頼(内藤宗勝)を福知山市にある和久城付近で討ち取り、丹波国から反細川晴元勢力を一掃し、但馬国、丹後国へ勢力を拡大させていった。 第一次黒井城の戦い[編集] 永禄13年(1570年)3月、織田信長に拝