先日Vtuberの屍鬼殿(チャンネル)がツイッターで「ファンチによりVtuber引退」という話題をとりあげ、ゲリラ配信を行った。 配信ではより掘り下げて話をしていらっしゃるので、興味がある方、特にVtuberの方には是非見ていただきたい。 内容は昨日私が記事でもとりあげた「要求が強いファン、Vtuberをコントロールしようとするファン」について。そういったファンでありながらアンチに繋がる行動をとってしまう人=”ファンチ”の存在。 正直な所、そういった"ファンチ"を減らすこと・御することはかなり難しい。それはチャンネル人数が増えれば尚のことだ。 人間の根底に眠る「嫉妬」だとか「独占欲」「コントロール欲求」といった感情は、「好意」と表裏一体という厄介ぶり。 行動の起因となる部分が「好意」であるがゆえに、本人はそれに「正当性」を持ってしまっている。 Vtuberが「嫌だ」「やめて」と言っても「君
Vtuberを「キャラクター」として認識するのか、それとも「Vtuberというアバターを使用した配信者・投稿者」として認識するのか。そもそもVtuberの定義とは何か…この手の議論は尽きることを知らない。 先に述べたとおりVtuberと一口に言っても、その形態や方針は多岐に渡る。正味、7000通りの主義主張があると言って過言ではないと思う。 「リアルタイムで生きているキャラクター」「レスポンスがあるキャラクター」とVtuberを表現する人もいる。それこそVtuberが流行り出した当初は、三次元要素がVtuberから滲み出ることに拒絶反応を示す傾向が強く、二次元寄りの解釈が強かった。しかし、時間の経過につれそれも随分寛容になり、Vtuberの曖昧さはある意味加速しているのかもしれない。 私は所謂、キャラクター寄りのVtuberが好きで、何となく「アニメ・漫画のキャラクター」に近い感覚で彼らを
以前Twitterで話題になった「Vtuberの引退声明に引き止める声が少ない」という話。さまざまな意見が散見された中で、一番強く印象に残ったのは 「どうせ他に推しているVtuberがいて、沢山の推しの内の一人が減るだけだから、引き止める必要がないのだろう」といったものだった。 雷に打たれたような衝撃は、まさしく驚愕そのもの。なるほど、そういう解釈をする人がいるのかと、人の思考の奥深さを目の当たりにした気分だった。 「推していたVtuberが引退する」のは、表向き前向きな理由であったとしても、ファンにとって喜ばしいことではない。「辞めないで!もっと続けて!嫌だ!!!」と駄々をこねたいのは山々で、だがその言葉を受けたVtuberが「喜ばない」だろうし「困ってしまう」と思って、多くの視聴者は口に出さないのだと思う。 それを「他に推しがいるからだ」と解釈されてしまうのは、なんだか悔しいような、言
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