昨日のエントリで「感覚A」と書いた。この問題を哲学がどう定式化しているのか最近その手の傾向に疎いのでなんだが。 大森荘蔵はこの問題にあまり触れていなかったように思う。彼にとって、この世界が唯一、そしてその感覚は世界そのもとしていながら、言葉=世界だった。私たちが言葉をもって他者や世界と交わることをそのまま素朴に見ていた、あるいは見ようとしていた。なぜならそれが言語ゲームだし、そういうゲームを前提にみるしか世界=言葉は成立しない。しかし、やはり、ばっくり深淵は開いていたようにも思うので、大森をまた読み直すか。(たぶん、彼は「私」の「痛覚」、あるいは過去の「悲しみ」の記憶のような変奏をしていたかと思う。) 感覚Aは、実は、クオリアと言い換えてもいいのかもしれない。が、ちょっと思い至らなかったのは、クオリアは、〜のクオリア、という一種の言葉の志向性がある、ないし、志向性の枠組みで問われる。 確か