ブックマーク / blog.szk.cc (8)

  • 時間は有限だが可能性は無限だ

    35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになってから、つまりデビューしてから10年ということになるのだけど、歴史というか社会的な風潮の目安としてのディケイドと、自分の人生の中の10年というのは同じ物差しでは測れないわけで、こっちも「へえ」くらいの感想だったりはする。 35歳問題、という奴にも直面しそうな気配はない。自分の人生を振り返れば、なれたはずの自分、失わなくてもよかったはずの関係、今なら選ばないはずの大事な選択は、山ほど数え上げられる。けれど、もうここに至るまで何度も何度も後悔して懺悔して諦めて開き直ってまた後悔してを繰り返してきた僕にとって、「取り返しのつかないこと」が持つ重みなんて、いまさら突然増えるはずがない

    時間は有限だが可能性は無限だ
    bokosu
    bokosu 2011/04/20
  • ニュースとしての行動履歴――mixiとfacebook

    最近、ぼんやりとfacebookを眺める機会が増えた。特に何かを発信するわけでもなくて、何かを書くときも英語で、と決めているので、基的には見ているだけ。しかも流れてくる情報にもあまり興味を持てない(他のサービスだってそうだけど)ので、ほんとにただの「読み流し」。でも、しばらくそうやって読み流しているうちに、facebookのインターフェイスが想定しているのは、そうした「読み流し」なのではないかという気がしてきた。 少し遠回りして説明しよう。人がウェブサービスを利用する大きな動機は「反応が返ってくること」だと言われている。言いたいことを言いっぱなしに言えるからではなくて、自分のアクションに対して何かリアクションが返ってくると、それにさらにリアクションをしたくなってしまう、というわけだ。もちろんそれはポジティブなリアクションばかりとは限らない。けどネガティブなリアクションの連鎖も「2ちゃんね

    ニュースとしての行動履歴――mixiとfacebook
    bokosu
    bokosu 2011/02/14
  • ノンアルコールビールとターンテーブル

    若者にモノが売れないと嘆く声が、昨年はあちこちから聞こえてきた。そこに無根拠な若者批判の匂いをかぎ取ったネットの人たちなんかは、バブル世代を基準にするなと反論したが、肝心の部分は分からないままだった。要するに、お金がないから消費しないだけで、ほんとは一回履いたスニーカーは二度と履かないみたいな生活がしたいと思っているのか、かつて欲しがられていたモノへの購買意欲そのものがないのか、ということだ。 この問題は実際には検証できないことで、それというのも、「かつての消費」というものは、「将来にわたるレギュラーな収入」によって支えられていた可能性が高く、宝くじで数千万円当たったからといって、そうしたレギュラー収入で購買意欲をかき立てられる商品にマインドが向かうとは考えられないからだ。消費というのは、消費するためのスキルや価値観を涵養する環境と一体で可能になるものだ。 「お金があったら消費するのか」と

  • あなたの欲望に寄り添うなら

    一年を振り返って今年は大変だったなあと思うのは、きっと年の瀬がすごく静かで穏やかな人の特権で、それどころじゃないよ仕事だよ、って人も、このサービス社会にはたくさんいる。高度に消費社会化が進むと、今日くらいはお金で買えるサービスに頼らずに家族や友人、近隣の人々と過ごそうぜって人がいなくなるというか、そういう人たちを家から追い出してお金を使わせようとする誘惑が増えていくからだ。 もともとそういう誘惑にはあまり魅力を感じない方で、だからといって年越し蕎麦とおせちが大好きってわけでもなくて、昨年と同じことを書くけれど、要するに僕にとって年末は単に自分の死に思いを馳せる時間なのであって、無理矢理にでも孤独になる必要があるのだ。というわけで、原稿までひとしきり片付けて、何もすることがなくなったことにして、ぼんやりと一年が死ぬ瞬間を待っているのである。 消費社会化と同じ理屈で、僕たちはどんな瞬間にも「し

    あなたの欲望に寄り添うなら
    bokosu
    bokosu 2011/01/01
  • 何もないならここにいないはず

    閉塞よりは打破を、安定よりは挑戦を望んで生きてきた。口先野郎どもの意識が高いごっこにはうんざりだったし、全ての人に同じ生き方を求める自己責任論者ではないけれど、面白いことしようぜ、新しいことを始めようぜ、って集まってきた連中と何かを成し遂げ、手をたたき合うような「仕事」が、自分の生活の中心だったことは間違いない。明日放送の「青春リアル」では期せずして僕のそういう面にフォーカスが当たることになったけれど、このあたりの微妙なニュアンスは、なかなか伝わらないのかなあとも思う。 降りる生き方がブームだと人は言う。リタイヤの時期を迎えた60代たちが40年近く前に言い始めた「モノより心」だの、「ユックリズム」だのといったコンセプトを、その子どもの世代がそのまま踏襲して、スローライフだの農業だのと騒がしい。ただ意識されていないのは、老人たちが目指したのは「モノより心」を満たすための「モノの消費」であり、

    何もないならここにいないはず
  • 7月のいただきもの&読書

    前者は担当編集の方から、後者は著者の和田さんからいただきました。毛利さんのでは、カルチュラル・スタディーズの立場からストリートのアクティビティを評価し、ポストモダン思想が脱政治化されていくのと入れ替わるようにして登場したそれらの「ストリート」が、政治性を帯び始めていることが指摘されている。むろんこうした「年代論」は、常に「偽史」でしかあり得ないし、納得できる部分も、そうでない部分もある。ただそういう「90年代の転換」を語るアクターが複数存在すること自体には、十分意味があると思う。 和田さんのでは、これまで書かれたいくつかの文章を集めながら、ランシエールの思想を軸にした「実存主義的な政治」の意味が語られていると読んだ。政治問題化されることで、その問題をつくり出す要素、いち客体として構成されることに抗う権利としての「街路への権利」を求める和田さんの主張は、ルートも結論もだいぶ違うとはいえ、

    bokosu
    bokosu 2009/08/01
    「「市井の人々の実存を賭金にした政治」こそが、特に00年代に新自由主義的な政策や考え方を浸透させる要因になってきた、というのが僕の考えだ」
  • 続・文化祭化する日常

    もう10年も前のことになるけれど、「文化祭化する日常」という文章を書いたことがある。まだ「Phase II」が付く前の僕の個人サイト(当時は日記はあってもブログなんかなかった)での話だ。その後、サイトをブログ化したり、データがクラッシュしたり、サイトを閉鎖したりといった経緯もあって、元の文章は失われてしまったので、長らくどんな話だったか忘れていたのだが、ふと気になるところがあって、Web Archiveで検索して読んでみた。約1年半で12の文章が書かれていて、どれもとても興味深いというか、10年前から考えていることがほとんど変わっていないことに驚いた。進歩がないともいう。ま、そのうち10周年記念でどこかに公開するかもしれない。 で、そもそもなぜそんなものを読み返そうと思ったのかというと、アニメ版『けいおん!』の第12話を見て、ああ、「日常の文化祭化」の行き着く先が、こういうことなのかな、

    続・文化祭化する日常
  • 直列につながった僕たちは

    春アニメも終了の時期になり、どっちを先にしようか悩んだのだけど、まずは「東のエデン」の感想から。どうしても神山作品というのは批評というか「難しいこと言い」に評判がよくなるわけで、エンターテイメントとして楽しい作品にこそ、「過剰」としての批評が蛇足のようにくっついてくるものなんじゃないかと思っている僕としては、批評的な価値があるからこの作品を褒めていると思われるのもイヤなのだけれど、ともあれ確かに難しいことを言いやすい作品だったと思う。 ただ、それを離れてこの作品を評価するのは難しい。羽海野チカの手によるキャラクターは、どんだけ滝沢が森田さんにしか見えなかろうと、それゆえにこそルパンIII世やシティーハンター、そして神山監督のS.A.Cシリーズに連なるシリアス・アニメの枠をいい意味で壊していたし、嫉妬したり、野望を抱いたり、大きく展開する物語にただ戸惑ったりする登場人物たちの「普通」っぽさが

    直列につながった僕たちは
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