故郷を思うとき、ぼくはよく汽笛の聞こえる港町まで足を運ぶ。 この島の他の都市と同様に、高雄という港湾都市は常に異なる人種や民族によって統治されてきた。その上、国際的な港湾都市として駆け足の発展を続けてきたために、どこを切り取ってみても、新しく生まれた光景と朽ちてゆく光景がグラデーション状に同じフレームの内で収まってしまう仕組みになっている。 だからなのかもしれない。いつからかぼくは、この街に潜む生と死が混然一体となったそうした気息の中に、行き場のない自身の郷愁を浸しては、染師よろしくその染まり具合を観察するようになっていた。おそらくそうすることで、ときおり訳もなく滲み出す郷愁を相対化し、異郷でのひとり暮らしに折り合いをつけてきたのかもしれない。 近代以降発展した東アジアの湾岸都市は、多かれ少なかれみな欧米列強や日本帝国による帝国主義政策の影響を受けているが、この都市の港にも実に様々な亡霊た