八重の最初の夫となる男性は、意外にも出石藩の出身者でした。平成24年(2012)の5月頃、歴史研究家のあさくらゆうさんたちの史・資料調査によって次第に明らかになってきたことです。川崎尚之助の出自や人物像がわかる記録は、八重自身や再婚相手の新島襄に比べるとほとんど無い状況でしたから、なかなか出石と結びつかなかったわけです。 尚之助は天保7年(1836)に出石の本町に住む川崎才兵衛の子として生まれます。川崎家は出石藩士の家柄ですが、けっして高い身分ではなく、跡取りでもない尚之助はおそらく苦学しながら学問で身を立てるための精進をしたのでしょう。成長後は江戸の大木仲益(後の坪井為春)などの高名な塾で蘭学や舎密学を学び、有能な洋学者として知られていたのです。 八重の兄である山本覚馬と塾で出会ったことが、会津藩ひいては八重との結びつきになります。尚之助が、若くして洋式銃や兵法書の翻訳などに通じていたこ