本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。 父祖以来、徳川氏に仕えるが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 生涯[編集] 反逆から流浪[編集] 天文7年(1538年)、本多俊正の次男として三河国で生まれ、徳川家康に仕えた[1]。桶狭間の戦いの際には今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い、その合戦において膝に傷を負って以来足を引きずるようになったという(『佐久間軍記』)[注釈 3]。しかし永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に[3]家康に敵対[2]。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した[2]。『藩翰譜