構造主義を語るときに、人類学者のレヴィ・ストロースは絶対に欠かせない重要な人物となっている。「親族の構造」の解明こそが、構造主義の歴史における金字塔として紹介されている。だが、今までの僕は、このレヴィ・ストロースの業績に対して、いったいどこがすごいのかということが分からなかった。確かに、世界で初めて構造というものに注目してその理論をまとめたという先駆者性は認めるものの、それは単に一つの解釈を提出しただけではないのかという思いがあった。 インセスト・タブーと呼ばれる近親相姦の禁止の習慣を、それは女の交換というものを生じさせるためだという、人々を驚かせるような意外な理論を提出したところにすごさがあるとも思えない。だいたい、この理論の正しさを僕はよく分かっていないので、これが本当に正しいと確信できなければ、この理論を提出したことのすごさというものが実感としてわいてこない。これは本当に正しいのだろ
宮台氏の社会学入門講座では、毎回その前の回の復習をしてから次の回の本題に入るような展開になっている。「連載第一四回:役割とは何か?」でも「役割」の説明に入る前に、その前の回で解説した「行為」についての確認を書いている。 この確認を読んでいると、論理的な展開というものがどういうものかというのが見えてくる。宮台氏のこの講座では、社会学の基本概念を説明するのが主目的だが、それは、その概念が論理的に展開されてどのような知見をもたらすかを説明するのが本題となっている。現実に「社会」という対象に見られるような存在を観察して、ここにこのような側面が見られるという、現実の解釈を語っているのではない。基本的な概念として、このようなものを認めれば、その概念に含まれている論理的な前提から、このような結論が必ず(論理的に)導かれるという論理の展開が語られている。 このような発想で物事を考えるというのは、「モデル理
沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映させるつもりはない。しかし、少しの疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてくるというメンタリティは考察に値するものだと思う。 僕は、宮台真司氏や仲正昌樹氏の左翼批判に共感するところがあるのだが、特に宮台氏が語る「左翼の嘘」という指摘に重要なものを感じている。これまでの左翼の言説には、プロパガンダとして役に立つのであれば、少々疑わしい「事実性」であってもそれを宣伝して言語ゲーム的な「事実」にしてしまったものがあるという指摘だ。もっとも分かりやすい例が、今日本にいる在日朝鮮人と言われる人々の大部分が、強制連行された人たちの関係者だというものだ。これ
仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。 哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。 科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出
野矢茂樹さんの『無限論の教室』(講談社現代新書)では、実無限と可能無限が中心的な話題となっている。野矢さんの分身のようなタジマ先生は、実無限に懐疑的で、無限の概念としては可能無限だけを認めるべきだと主張している。 実無限というのは、無限の対象の全体性を把握して、無限が実際に存在しているとする立場だ。可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場だ。 実無限を認めないという立場は、それなりに納得出来るものだ。無限という言葉で呼んではいても、その細部にわたってそれが分かっていないとき、それを果たして「無限」という言葉で呼んでいいものかどうかに疑問を持つというのは正当な疑問のように思える。よく分かっていないものに対して「無限」という判断をするのは、単に名前を付けているだけのような気もする。 「実無限」
漫画家の江川達也氏をゲストに招いたマル激の議論で、宮台真司氏は「左翼の嘘」という表現を使った。これは、「朝鮮人強制連行」に関わる言説で、「全て」の在日朝鮮人が強制連行で連れてこられたというのは嘘であって、強制連行による人も「存在した」のは確かだが、大部分は自ら日本へ来た人ばかりだったというものだった。 この事実に関しては僕も驚きだった。宮台氏自身も、高校生まではこの「左翼の嘘」が正しいというイメージを持っていたそうだが、僕はついこの間までは、大半は強制連行された人だったのではないかと感じていた。それが全く逆だったというのが事実の方だというのは驚くことだった。 宮台氏によれば、この「強制連行」に関わる言説が嘘であること(大半が「強制連行」ではないということ)は、在日の人々の間では自覚されていたそうだ。宮台氏はそれを在日の人たちに直接聞いたという。しかし、何らかの理由で、この嘘(一部の「存在」
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く