■ちょっと、いそがしいので更新は低速で。文章は支離滅裂で 時間の積み重ねを使った手法は文章技術や思考操作とかレトリックでなんとかなるものではないと思うのだけれど。 長篇における喪失感の話で言いたいのは、いくらレトリカルなしかけをしても 時の質量には勝てない気がするってこと。 いいや、ちがうか、文章や設定の秀逸な設定でできることと、実時間を使った仕掛けでは与えられる効果が違うというべきか。 七年待った。って言葉は七年本当に待った人間がつぶやく言葉だから意味があるわけじゃん。 これを想像であの人は「七年待った」という情報がどこかで与えられてるから、読み手は言葉の重みを感じる。 じゃ、情報じゃなくて実際に七年待った人と同じ経験をさせたらどうなるか。 というか、七年待ったという情報に思いを馳せるのと 実際に一緒に七年待つのとどっちの方が気持ちがシンクロするだろうか? つー話。