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ブックマーク / tdaidouji.hatenablog.com (9)

  • 『 CLANNAD 』と比較対象となりそうなゲーム作品について その2 - 旧tototo

    『 My Merry May 』『 My Merry Maybe 』 全年齢対応について 『 CLANNAD 』は、これまでの『 ONE 』『 Kanon 』『 AIR 』と異なり18歳以下購入禁止ではなく全年齢対応に変更されている。エロを目指さないということは、選択肢を選ぶ際に、プレイヤーの戦術として特定キャラクターをストーカーするような選択をする必要がないということである。すなわち、プレイヤーはゲームプレイの際に人との繋がりを必ずしも志向しない、ということになる。 一般に、エロゲーのコンシューマー移植などでエロ抜きかつキャラクター志向のシナリオ分岐型ノベルゲームが作られる際、そうした必然性の欠如を補うのは、「元はエロがあった」という認識を前提としてプレイする態度、キャラクター紹介に終始するOPや特定キャラクターと恋愛関係に至ったときのみ見られるED、パッケージや説明書のキャラクター紹介

    『 CLANNAD 』と比較対象となりそうなゲーム作品について その2 - 旧tototo
  • MMOアンソロジーがやおいになってるって話 - 旧tototo

    ・「PC対NPCPCPCという物語成立の変容」 id:hiyokoya:20060223#p1 萌える萌えない関連の話ではここんところで一番面白いと思われる話題。直前で挙げられていた韓国と日ゲーム論の立脚点の差の話 韓国における「ゲームの物語論」ではプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が問題化されていないということです。くりかえしになりますが、これはやはり普及したジャンルがRPGだったのか、あるいはMMOだったのかというジャンルの格差が言説形成に影響をおよぼしている id:hiyokoya:20060222#p1 とも重なってます。 で、僕らにとってまず気になるのは「PC対NPCPCPCという物語成立の変容」というタイトル。エロゲーやギャルゲーで発展してきたビジュアルノベル、ノベルADVといったノベルゲームが「 PC 対 NPC → NPC 対 NPC 」という形でそのシナリオ内

    MMOアンソロジーがやおいになってるって話 - 旧tototo
    catfist
    catfist 2006/03/11
  • 『C†C』 - 旧tototo

    批判じゃない議論じゃない。←呪文 ノベルゲームの分岐するシナリオは何処で分岐するのか、と考えた場合、多くは選択肢で分岐する。他にスタート時点でランダムで開始される『弟切草』のそれがあるけれど、それを指して「分岐」と言う人はあまりいないと思われる。で、分岐と密接に関わりあう選択肢が『C†C』では非常に無造作に投げ込まれている。ちなみに『鬼哭街』では選択肢が存在しないため結末が一つであり、『腐り姫』では「もうその先のループはない」という状態のEDが4種類用意されている。(正確には3つはループを終焉させ1つは特殊な形でループへと回帰する) 『C†C』のシナリオの構造も設定もシステムデザインも基的に全て意図的であるとして(普通はどんなジャンルのどんな作品でもそういうものだが)、『鬼哭街』のように文中選択肢を完全消去しなかった意図を考えた場合、選択肢を無意味なものとみなし、繰り返しと選択肢の関係を

    『C†C』 - 旧tototo
  • ■ - 旧tototo

    『 CROSS†CHANNEL 』については以前さるさる日記の1日1000字制限で30日以上、およそ3万字オーバーぐらい批判書いてたことがあります。ちなみにこのときの過去ログは設定や展開を巡る批判のところ前後10日分ぐらい、上手い具合にコピペをミスって手元に残ってません。 id:tdaidouji:20050615にも書いたように、単線構成なら基的には小説などと変わらないわけで、繰り返し表現の必然性がないのなら時間の無駄ジャン、というのが基的な意見。これに従来のマルチシナリオ・マルチエンドの形式を前提にしないと作品が成立しないことも加えるなら、むしろ作がネットのごく一部で高い評価を得てしまったことで、疲労し形骸化したマルチシナリオのシステムを改善させぬまま延命させる一助になってやしないか、という疑問も生じます。内ゲバに終わってるように見える、と言い換えても可。ちなみに私の場合、『AI

    ■ - 旧tototo
    catfist
    catfist 2005/09/23
    >単線構成なら基本的には小説などと変わらないわけで、繰り返し表現の必然性がないのなら時間の無駄ジャン
  • 質問に回答してみた。 - 旧tototo

    なぜ、現実では「人を殺してはいけない」とされ、フィクションでもそのルールは概ね準用されるのに、現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせることはよいのでしょうか? http://www.hatena.ne.jp/1126366449 id:crow_henmi:20050911#1126437178から飛んで、回答してみたくなったので、回答してしまいました。 なお、フィクションの登場人物たちが何時までもスーパーヒーローで大活躍し続けるのを偶像崇拝と書きましたが、偶像崇拝もまたアリだと思っています。 なお、Kanon以降のノベル系ゲームはヒロインを自らの手で殺すことを主題とした物語であるとも言えます。

    質問に回答してみた。 - 旧tototo
    catfist
    catfist 2005/09/18
    >Kanon以降のノベル系ゲームはヒロインを自らの手で殺すことを主題とした物語であるとも言えます。
  • 『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion - 旧tototo

    その8。(完結) その1はid:tdaidouji:20050720#p1 その2はid:tdaidouji:20050723#p1 その3はid:tdaidouji:20050729#p1 その4はid:tdaidouji:20050731#p1 その5はid:tdaidouji:20050804#p1 その6はid:tdaidouji:20050809#p1 その7はid:tdaidouji:20050810#p1 いよいよ、これで終わりです。途中で多少粗雑に処理しちゃいましたが、何とか発売前に間に合いました。 以下ネタバレ。 前回のラスト。 >物語へのクリアな視界が確保されます。 と書きました。「ひぐらし」の卓越した仕掛けは、ただひたすらこの一点に尽きます。 それを可能にしたのが、「選択肢がないけれどもゲームである」と宣言することにより、分岐構造に抱え込まれた全体を包括的に見通そうと

    『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion - 旧tototo
  • ゲームと物語 その2 - 旧tototo

    id:tdaidouji:20050623#p1の続きとして、id:pmoky:20050624#1119554528への返答として。 前置き まず、ちょっと便利だったので引用させていただきます。 逆説的ではあるけれど、私は自分の認識している「世界」と、「現実の出来事」にズレが起こった時にこそ「世界」とか「現実」を感じるのだけどなぁ。観念として認識している「整合性のとれた世界」こそが「世界」なら、体験・経験なぞ余計なことだと思うのだけれど、何故かゲームだとか小説だとか映画だとかでは、整合性のとれたものこそ「世界」と呼ばれている気がする。 http://kishiwadungeon.hp.infoseek.co.jp/memo200507.htm#0703-2 この意見には、私はあまり異論がありません。ゲームにおける整合性というのが、おそらくゲーム性と言われてしまうもののことだと思っています

    ゲームと物語 その2 - 旧tototo
    catfist
    catfist 2005/07/05
  • ゲームと物語 - 旧tototo

    Q1:昔はそんな区別してなかったのに、なんで分けて考えなきゃならなくなってんのか。 A1:ゲームがジャンル化したから。 ジャンル化するてことは、以前からの作品文脈の方向性がゲームプレイ時に入り込むことになる。 ゲームの場合、そのジャンルの文脈てのはゲームシステムの大雑把な方向性を指す。STGとかRPGとか。ジャンル化すると文脈からの継承、延長がプレイヤーの読み筋となる。でも作ってる奴は別の読み筋で読んでもらいたい。そこでプレイヤーを別の作り手の期待する読み筋に誘導するために「物語」が導入される、というのが大雑把な筋書き。要するに、ジャンル文脈に頼りきってプレイヤーの読み筋を誘導するための手つきの繊細さに欠けると「物語」が分離する。 Q2:「物語」って? A2:この場合、ゲームの切断面と言えばいいのか。クリエイターとプレイヤーの共有事項と言えばいいのか。プレイヤーから見て理解できるもののこと

    ゲームと物語 - 旧tototo
    catfist
    catfist 2005/06/26
  • 劇場版AIR(2回目) - 旧tototo

    熱も下がったことだし早速2回目行って来ました。うん、違和感ないない。原作知ってる人は不意打ちに笑わせられずに済む2回目からが番だね。 以 下 ね た ば れ あーしかし観鈴ちんかわええのー。観鈴ちんがんばれ。超がんばれ。 そいや気がついたけど実は原作の構成外してないのねコレ。パンフの監督インタビューからすると原作見てないし脚は原作シナリオの抜書きダイジェスト版を提出しただけに見えるのに。感心するのが例の「ごーるっ」のシーンでさ、「青空」が例によってかかるんですけど、ちゃんと寒々しいんですよ。あんなん、原作プレイしてなかったらいかにも感動で盛り上げて涙の超絶クライマックスに仕立て上げるところだと思うんだけど、ちゃんと歌が空回りしてんのね。既に事は終わっていて国崎の回想であることが示されて、晴子の悲痛な表情もすべってる。 そういや出崎演出の止め絵処理はエロAVGにおけるイベントCGに、3回

    劇場版AIR(2回目) - 旧tototo
    catfist
    catfist 2005/04/08
    [映画]劇場版AIR(2回目)
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