在原業平朝臣 ありはらのなりひらあそん 825〜880 千人万首 17 ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは ちはやふる かみよもきかす たつたかは からくれなゐに みつくくるとは 【私解】神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括(くく)り染めするとは。 【語釈】◇ちはやぶる 「神」にかかる枕詞。「勢いはげしい」ほどの意が響く。万葉集では「千磐破」の字が宛てられている例があり、千の岩も破る意で解されていたか。後世、「千早振」などの宛字が多く見られるようになる。◇神世 神々が地上世界を跋扈(ばっこ)し、摩訶不思議な現象が日常的に発生していたと考えられていた時代。「神世もきかず」は「神代の昔語りにも聞いた覚えがない」ということだが、一種比喩的な言い方であり、この魅惑的な情景に対する驚嘆を強調しているの
延暦25年(806年)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて、嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。だが、翌大同2年(807年)には早くも天皇の異母弟・伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。 大同4年(809年)4月、平城天皇は発病するが、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。 大同4年12月(810年1月または2月)、平
既に約束の時間を1時間回っていた。 若者が行きかう街の隅にあるバーで、ようやく現れた老人が差し出した皺だらけの掌には、鈍い青銅色の「玉」(ぎょく)がそっと載せられていた。 その青銅色の玉(ぎょく)は、かつては、より鮮やかであったことを思わせる色合いであったが、今はただ鈍く輝いていて、店の天井にある、アンティークのガス灯のような照明器具を、深い海の底に眠る財宝のように、その表面に静かに映し出しているだけだった。 俺は、その何か大仰な登場の仕方に気押されながらも、 「一体全体、何ですか?これは」 と、場に似合わない頓狂な声を発し、その間抜けな声に自分で驚く。 奥で1人グラスを磨いていたバーテンが、ちらりとこちらを見やるのが、視線の端に 入った。老人はその様子を横目で見て、唇の隅を微かに揺らしながら答える。 「センテーからね、賜りました」 「センテー・・・?」 「センテー」とは「あの文字」をあて
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