登山家栗城史多(くりきのぶかず)がエベレスト南西壁で遭難したと知ったとき、こみあげたのは憐れみの感情だった。自分でも登れるわけがないとわかっている難ルートに、自己演出のために挑み、滑落する。その最期は憐れという以外に言葉が見つからない。その感懐は本書を読んでさらに強まった。そしてわかったことがある。それは、彼が憐れだったのは、登山家を名乗っていたのに登山を信じていなかったからだ、ということだ。 彼は山を演出の場としてしかとらえていなかった。そのことは本書に一貫して書かれているが、とりわけ、彼の登山がいかに粉飾されていたかを物語るシェルパの証言のくだりでは、複雑な気持ちになった。それは読んでいて切なくなるほどだった。どうして彼はそれほどまでに登山に対して不誠実であれたのだろう? 虚像と実像の整合性が自分でもとれなくなった、との知人の言葉があるが、その通りだと思う。彼は山に命をかけたのではなく