鈴木邦弘 420本 『福島のいま』として、これまで双葉郡を取材して撮影した写真を公開していきます。 公の報道では、「こんなところが復興しました」というニュースが中心で、未だ復興できていない場所は完全に後回しです。震災から13年を経て、東京五輪も終わりコロナ禍も明け(本当は明けてない)、「福島はもう復興したんでしょ?」と話す人もいます。政治家は時と場合によって「復興した」「復興半ば」と使い分けます。現地に足を運ぶジャーナリスト、アーティストは今や希少な存在となっています。 現地を480km歩いたおそらく日本唯一の絵描きとして、拙い写真ではありますが、僕なりの目線で見たものをこちらにまとめていこうと思います。 カンパ、サポート大歓迎です。
阪神・淡路大震災 スマホのない時代に撮影された貴重な映像 阪神・淡路大震災で炎の海となった街で市の職員によって撮影された映像は、現在も貴重な震災史料として残されており、撮影者の松崎さんは改めて「震災を知らない人に見てほしい」と願っている。 スマホのない時代、市職員が撮った震災 ビデオ片手に炎の街で叫んだ 「なんちゅうことや……」。阪神・淡路大震災で炎の海となった街で、神戸市広報課職員だった松崎太亮(たいすけ)さん(60)=現・企画調整局ICT連携担当部長=は声を震わせた。被災直後から松崎さんがビデオカメラを持って神戸市内をまわり、被害状況を記録した。スマートフォンもない時代に撮られた、この貴重な映像は震災資料として残されている。定年を今春に控え、松崎さんは改めて「震災を知らない人に見てほしい」と願う。 ■8ミリビデオ片手に自転車で すさまじい振動と轟音(ごうおん)。1995年1月17日午前
2011年3月11日の東日本大震災から5年がたつ。東北の人たちの思いや移り変わる風景を、震災直後から現地を撮り続ける6人の写真家が伝える。 1月初旬、宮城県石巻市に暮らす37歳の会社員、木村洋介さんの案内で同市の南部を訪れた。 石巻湾に面した平野に広がっていたのは、雑草に覆われた更地だ。ここ南浜町は、2011年3月11日の大津波に見舞われた後、火災で焼け野原になった。今はところどころで復興工事が進んではいるものの、町の大部分が更地のままになっている。 木村さんは津波で自宅が床下まで浸水し、親戚を一人亡くしたが、被災から半年ほどで元の生活を取り戻した。 10年ほど前から趣味で三陸の風景を撮っていた木村さんは、日々めまぐるしく変わる被災地の風景を「自分の記録として残しておきたい」と、震災直後からカメラに収めてきた。 宮城県気仙沼市の旧南三陸シーサイドパレスがあった小泉海岸は、夏に友人たちとよく
Secretary-General Ishiha Liberal Democratic Party said on his blog, “Demonstrators are terrorists in essence.Mothers are also terrorists?2013年12月5日。 参議院委員会で特定秘密保護法案が与党の強行採決された。 国会議事堂の外には数千人の市民が集まり抗議集会を開いていた。 日本国政府は国民に情報から遠ざけ、国民の知る権利を奪うだけではなく、 国民を独裁政権のように縛り上げる法律を粛々と成立させようとしている。 特定機密保護法案は、今日衆議院本会議で与党の圧倒的多数を持って可決される見通しだ。 多くの国民はこの独裁的方法に怒りを感じている。 また、このように重要な法案が十分に審議を尽くされないまま国会を通過していく今のは、かつて日本が戦争に突き進んだ歴
「破滅」と書かれた画用紙を看板の手前で掲げて、自ら25年前の標語を訂正した大沼勇治さん=福島県双葉町で 「原子力明るい未来のエネルギー」。福島県双葉町の中心街の入り口に掲げられた看板の標語だ。二十五年前、当時小学六年の大沼勇治さん(36)が町のコンクールに応募し、選ばれた。大沼さんは、一年四カ月の避難生活で「脱原発」を確信した思いを伝えたいと、今月十五日、一時帰宅した際、自ら標語を「訂正」した。 大沼さんは東京電力福島第一原発の事故後、身重の妻せりなさん(37)と地元を離れ、現在は愛知県安城市で避難生活を送る。町が原子力標語を公募したのは一九八七年。原発が町の未来をつくると信じた言葉が入選。第一原発から約四キロの自宅近くに鉄製の看板が電源立地交付金で建てられ、誇らしかった。 大学を出て就職などし、二十九歳で帰郷。不動産会社に勤める傍ら、看板の横にある土地にオール電化のアパートを建てて、東電
野田総理の原発再稼働へ向けた会見には違和感を覚えた人も多いと思うが、私がもっとも違和感を感じたのは「私たちは、大都市における、豊かで、人間らしい暮らしを電力供給地に頼って支えて来ました」という一節。 野田総理が(実際にはその後ろにいる経産省が)言うところの「大都市における豊かで人間らしい暮らし」とは何を指すのだろうか?すぐに頭に浮かぶのは、オール電化のマンション、クーラー、電気ポット、食洗機、24時間営業のコンビニエンスストア、50インチの液晶テレビ、パチンコ屋、ゲームセンター、ネオン街などだ。 イメージにしてみるとこうなる。 一方、原発事故が福島県の人々から奪ったのは、一生かけて育んで来た畑であり、安心して食べられる地元の食材であり、校庭で泥まみれになって遊ぶ子供たちの笑顔である。 どちらを「人間らしい豊かな暮らし」と呼ぶべきか、どんな国を私たちの子孫に残したいのか。今一度考え直すべき時
> > > 116年前の大津波、惨状鮮明に 収集家が写真48枚保存2012年05月03日02時25分提供: 1896年6月に起きた明治三陸地震による岩手県釜石市の大津波被災地の写真。写真説明には「釜石港内停泊ノ帆走船(長安丸)数町の陸上ニ打上ゲラル」とあり、海岸から数百メートル離れたところに大型船が打ち上げられている様子は東日本大震災ととてもよく似ている(石黒敬章氏所蔵) 1896年に起きた明治三陸地震による大津波に襲われた被災地の写真48枚を共同通信は2日までに入手した。陸に打ち上げられた帆船、全壊した家屋、広範囲に散らばる流木、ぼうぜんとする人々など最大30メートル以上の大津波が岩手県沿岸に達し、死者2万人以上に上った116年前の惨状を鮮明にとらえている。明治時代の著名な写真師・中島待乳の遺品で、東京在住の古写真収集家、石黒敬章さん(70)が保存していた。
この動画は、ドイツの公共放送・ZDF(ツェット・デー・エフ)が福島第一原発に潜入取材したものです。 テレビ用にダイジェストとして短く編集したものは、この記事でご紹介した4号機燃料プールが崩壊すれば日本の終わりを意味する (ZDF) ですが、こちらは総集編ともいうべきもので、日本の原子力ムラにまで切り込んでいます。 ドイツZDF フクシマのうそ このドキュメントは、原子力ムラの黒い霧が、国のエネルギー政策の中枢部分だけはでなく、私たちの日常にまで及んでいることを教えてくれます。 膨大な情報を、よくこれだけコンパクトに無駄なくまとめ、編集できたものです。これは、ドイツZDFのプロジェクトとして、かなり綿密に企画立案されたものです。 こちらのサイト様に、文字の書き起こしがありました。ご尽力感謝いたします。 資料価値大のこの動画を記録として残しておく必要があります。上記サイト様から、書き起こし部分
常円寺を取材させていただいた際(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20120331/p1)、原発事故前に配布されていたカレンダーを見せて頂いた。福島県が発行した、「福島さんちの2011年原子力防災カレンダー」 というタイトルのカレンダー。事故後、和尚のもとに、怒りながら持ちこまれたものだそう。 「すごいカレンダーでしょう」と和尚。確かに、今見ると、シュールなブラックジョークのようにしか見えない。とりいそぎ、その場で撮影させていただいた。いくつかの媒体では既に紹介されたとのことだけれど、記録も兼ねてエントリー化しておく(全ては記事にできていないが、和尚には他にも、実に様々な情報を丁寧に教えて頂いた)。 「【福島県】このカレンダーには、万一、原子力発電所に緊急事態が発生した場合に、地域のみなさんが取るべき行動が書かれています。ぜひご家族で内容を確認し、行動について話
太平洋上を漂流する、東日本大震災で日本から流されたとされる漁船(2012年3月20日撮影)。(c)AFP/Canadian Department of National Defence 【3月25日 AFP】カナダ当局は24日、東北地方太平洋沖地震による津波で流された日本の漁船が、カナダ西部沖を漂流しているのが見つかったと発表した。 カナダ運輸省報道官はAFPの取材に、航空調査の結果、漁船には誰も乗船していないことが確認されたと語った。 ■バンクーバーの北1500キロを漂流 全長65メートルの同漁船は、定期監視パトロール中のカナダ空軍機が20日に発見した。 軍が撮影した写真には、クイーンシャーロット諸島(Haida Gwaii)の南岸278キロ、バンクーバー(Vancouver)のおよそ北1500キロを漂流する漁船がとらえられていた。船体はさびついているものの大きな損傷はない。 カナダ運輸
小原氏は震災の3日後、金融関係の仕事をやめ福島に入った。数々の作品の中でも圧巻は、福島第一原発で作業員の顔を真正面から見つめ、その生の言葉もレポートしたものだ。 「一真の対象を捉える姿勢の正直さと原発作業員をレポートするという勇気に心打たれた」と語る2人のスイス人が、写真集「RESET-BEYOND FUKUSHIMA(福島の彼方に)」の出版を決意した。 「外国のカメラマンだったらもっと遠くから撮るような場面を、一真はクローズアップで撮る。その被写体に最大限近づくところに、一真の感情が入っている。もちろん東北弁ができるから人の輪の中に入りやすい。しかしそれだけでない」と自身もカメラマンであるアドリアーノ・A・ビオンド氏は、小原氏の感情移入された表現を高く評価する。 それは例えば、自衛隊員が瓦礫(がれき)の中で遺体に手を合わせる場面や避難所の食事場面で、手に持つ茶碗のご飯粒が見えるほどに老人
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