【海峡を越えて 日・韓・朝芸能始末記(5・完)】あれだけ熱かった「韓流ブーム」が消えた3つの理由とは? 日韓共催のサッカーW杯が開かれた平成14(2002)年。日本は何度目かの韓国ブームに沸いていた。それに合わせて、両国ゆかりの著名人、専門家にインタビューした連載企画をやったことがある。 今度こそ日韓新時代の幕が開くのではないか。あるいは、政治や歴史に関係のないスポーツや文化でなら「壁」を乗り越えられるのではないか…。甘ったるい期待が込められた記事だったが、インタビューした中に、韓国音楽情報誌の女性編集長がいた。 いわゆるK-POPタレントを扱う情報誌。記事は《聞き慣れないアーティストの名前が並んでいる…》と始まっているが、編集長が語る内容は今思えば、なかなか示唆的だ。 《(読者は)専門チャンネルなどで韓国音楽を知った10代が結構多い》《(日本人歌手より)歌が上手で、ダンスもうまい。ルック
戦前・戦中に朝鮮半島から日本へ渡ってきた在日朝鮮人一世たちに愛唱歌を問うたら、日本統治時代の朝鮮で1930年代にヒットした『他郷暮らし(タヒャンサリ)』『木浦(モッポ)の涙』『涙に濡(ぬ)れた豆満江』あたりが必ず上位を占める。日本の歌では田端義夫の『かえり船』、ディック・ミネが歌った『人生の並木路』の人気が高い。故郷や残した家族を思いながら涙しながら歌ったのだという。 『他郷-』『木浦-』の2つの歌は韓国の大ヒットメーカー、孫牧人(ソンモギン=1913~99年)の作曲だ。 孫の生涯は、日本となじみが深い。戦前、日本に留学し、85歳で亡くなったときも日本に滞在していた。50年代から60年代にかけ、久我山明の名前で『カスバの女』などのヒットを飛ばしたときは不法滞在を疑われ留置所暮らしまで経験したという。 孫は『涙-』を歌った金貞九(キムジョング)や「歌謡皇帝」と呼ばれた南仁樹(ナムインス)らに
女流舞踊家、崔承喜(チェスンヒ=1911~69年)。日本語読みは「さい・しょうき」。オールドファンには『半島の舞姫』のニックネームが懐かしいかもしれない。 東洋人離れした170センチ近い恵まれた体とエキゾチックな美貌。現代舞踊と朝鮮の伝統舞踊をミックスした独創的な踊りで、ピカソやコクトー、川端康成ら世界中の文化人を虜(とりこ)にした不世出のアーティストだ。 崔は日本統治時代の朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の良家の出身(出身地は別説あり)。モダンダンスの石井漠(ばく)門下に入って日本へ渡り、次第に頭角を現す。昭和9(1934)年、東京で開いた第1回新作舞踊発表会で川端ら文化人・知識人に称賛されたときはまだ20代前半だった。 映画「半島の舞姫」(今日出海=こん・ひでみ=監督)に主演し、化粧品やお菓子などの広告モデルや、写真雑誌のグラビアページを軒並み席巻していたのも、このころだ。現代のアイドルが
2000年9月、オーストラリアのシドニーで開催されたオリンピック。「KOREA」のプラカードと白地に青の朝鮮半島を染め抜いた「統一旗」を先頭に韓国・北朝鮮の選手団が一緒に入場すると、11万人の観客で埋まったスタジアムは大歓声につつまれた。 紺の上着に、ベージュのズボン・スカート、オレンジのネクタイ姿でそろえた南北の選手が握り合った手を大きく掲げる。会場はスタンディングオベーションの嵐。特別席のサマランチIOC(国際オリンピック委員会)会長(当時)も南北選手団に手を振った…。 オリンピックでは初めて実現した南北選手団の合同入場。このとき、会場に流され、選手が口ずさみながら行進したのが「アリラン」である。 この9年前の1991年には千葉で開かれた世界卓球選手権で初めて南北の統一チームが実現した。女子団体では中国を破って見事優勝を飾る。後には韓国映画にもなった。 このとき、表彰台の真ん中に上がっ
【海峡を越えて 日・韓・朝芸能始末記(1)】「鳴り物入り」で解禁された日本映画はなぜ韓国でウケなかったのか…韓国の日本大衆文化開放 「政敵」を意識した金大中大統領1998年10月24日夜、韓国南部・光州市の小さなホール。歴史的瞬間を報道しようと、首都・ソウルなどから大挙して詰めかけた日韓のメディアで異様なムードに包まれていた。 「植民地支配を思い出させる」「低俗だ」と、日本の大衆文化(音楽、映画、ドラマなど)が禁止されてきた韓国でこの日、戦後初めて「日本語の歌」(大衆歌謡)が公式に歌われる。 光州は、就任当初から日本の大衆文化開放に積極的だった韓国大統領(当時)金大中のご当地だ。「日本週間」と銘打った日本大使館主催のイベント。出演する歌手の沢知恵(さわ・ともえ)=当時(27)=の母方の祖父が韓国の高名な詩人であったことも勘案されたに違いない。 翌々月からは、いよいよ解禁された日本映画の上映
作品賞、主演男優賞を含む7つのアカデミー賞にノミネートされた話題作「オデッセイ」(15年)。マット・デイモン演じる宇宙飛行士が火星に取り残されるストーリーの途中、カギを握ったのは中国の宇宙局だった。7つのアカデミー賞を受賞した作品「ゼロ・グラビティ」(13年)にも中国の宇宙ステーションが登場する。今、ハリウッド映画における中国の存在が大きくなっている。 ハリウッドの映画がこのように中国を良く見せる工夫をしている最大の理由は、中国の映画市場がとても大きいためである。英情報誌「The Guardian」は、2017年には中国の映画興行収入がアメリカを抜き、世界トップとなると予測する。国内の映画館の数が一年間で8000以上も増加したことで、興行収入が順調に伸びているようだ。 しかし、中国では国による映画の検閲がとても厳しい。外国の映画が中国で公開されるには、まず映画製作側が中国に脚本、もしくは完
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