柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一年(1956年)十二月に発行された雑誌『別冊 知性』第五号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されて以降、柳条湖事件は関東軍が満鉄線路を爆破したことが通説となっているのだが、この雑誌の記事は花谷正本人が書いたものではなく、当時二十三歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものだという。当時は満州事変にかかわった本庄繁、板垣征四郎も、石原莞爾もすでに他界しており、その雑誌記事の真偽は今となっては確認のしようがないのだが、満州事変が関東軍の自作自演であると主張する研究者の