ナミビアの砂漠 冒頭カナ(河合優実)が「どうしたの、元気ないね、食べてないじゃん」と女友達のドリンクを一口すくって差し出すのは自分もやりそうだと思う、何となく。「ぼく?」「すぐに?」とハヤシ(金子大地)の言葉をそのまま繰り返すのも自分がやりそうだと思う、分かってい…
本稿の改訂版をnoteにアップしています。項目別に整理しているので見やすいです。下のリンクで最新版をご覧ください https://note.com/cabanon/n/n379c454aad4f 昨日の【雑誌原稿書き方基礎講座】で使ったKeynoteに書いていたことを改変・再編集してアップします。全111条。僕が個人的に積み重ねてきたノウハウです。ライターだけでなく編集者としての心得も混じっています。仕事をしてきた出版社が違えば、このノウハウも違うものになったでしょう。だからあくまでも私家版です。デザイナーや建築家やアーティストや工学研究者の取材記事執筆を前提にした話であることをご了承ください。 *アップデート情報 ・全110条を全111条にしたり、第74条を追加して他を統合したりなど、こそこそ修正しているので、3/5にアップしたものとは少し変わっています(3/8記) ・95条の説明に奥義
日本語の三人称における視点について、例文を使った簡単な考察を。 まずはじめに、母親の泰子(やすこ)さんと息子の竜児(りゅうじ)くんに登場してもらいます。 例として、母親の泰子さんが息子の竜児くんの頭をなでるという動作を三人称で書きます。 泰子は竜児の頭をなでた。 というのが、ごく普通の書き方だと思います。この文章は、視点と関係性を意識して、次のように書くことができます。 1-a 泰子は息子の頭をなでた。 1-b 母は竜児の頭をなでた。 文を足して視点をはっきりさせ、少し手を加えると、以下のようになります。 2-a 泰子たちは公園のベンチに座っていた。泰子は息子の頭をなでた。 2-b 竜児たちは公園のベンチに座っていた。母が竜児の頭をなでた。 aの場合、視点は泰子さんにあります。読み手は、彼女の目を通して、物語を見ることになります。 そして彼女から見れば竜児くんは息子なので、三人称でも竜児く
私はいわゆるテキストサイトというのがはやっている時代(ブログの前)ぐらいから、日記のようなものを綴っているんだけれど、あるタイミングから「自分の考え」を書くことができなくなった。それは当時付き合ってた人の言葉。「お前の文章をネット上に載せるってことは汚染してるってことなんだ。無駄なこと垂れ流すな。」と言われた。「恥ずかしいから書くな。」とも言われた。別に彼のことを書いた覚えもないのに。ものすごい勢いで罵られた。確かそのころはブログが少しずつはやり始めていたころだったけれど、そこら中にブロガーがいたり、mixiで日記を公開したりするような気軽さはなかったかもしれない。周りでやってる人が少なかったかもとも思う。ただ、私にとっては「書くこと」は続けていた趣味の一つだったしそれをやめろと言われるのはかなりしんどかった。言われて、やめたこともあった。けれども「書くこと」から完全に離れたくなくってひと
何の脈絡もないが、ふと、絵を描けない人や、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人には、共通点があるように思った。 それは端的に言えば、ものごとを正確に理解しようという意識が弱いということ。対象を正確に把握しないままに、それを絵に描いたり、文章にしたり、喋ったりするから、相手に上手に伝わらないのだ。 ある対象についてのことを伝えるには、まずはその対象を自らがきちんと理解する必要がある。脳内に描くイメージ以上に正確なものをアウトプットできるはずがないのだ。例えば、誰か他人の似顔絵を描くというのはなかなか難しい作業だが、その理由は要はその人の顔を覚えていないからだ。かわいいとかキレイとかそういう感想の類いでもなければ、その人と他の人とを区別するためのテクニカルなポイントでもなく、その人の正確な顔である。輪郭や髪型、肌の色つや、目や鼻の位置やそれぞれのつくりなど、つまりは普段我々が目で見てい
ある短編小説の新人賞の下読みをした。 50本読んだのだけれど、総じて文章のリズムはうまい。けれど小説をちょっと誤解したまま書いた作品が少なくなかった。 小説は、書き手の妄想や欲望を自由に描ける個のメディアであり(共作の人もいるけれど)、自由であればあるほどすばらしいとは思うけれど、基本的な原則はやっぱりある。一見、椅子や机が飛び交うプロレスがアナーキーかつフリーダムに見えても、万国共通でヘッドロックは必ず左脇でかけるというルール(追記。メキシコは逆)があるように、ある程度の原則を踏まえていないと小説と呼ぶにはちょっと厳しい出来になってしまうのである。 最近のテレビドラマや映画の影響もあるのかもしれないが、キャラの心情がいやにストレートすぎたりする。たとえばある日本映画で土砂降りの雨のなかでキャラクターが佇んでいるというシーンがあった。つまり大量の雨を降らせることでキャラの悲しみを描いたつも
何十年前かの知識人の文章を読むと、漢字の少なさに驚くことがある。そして、そちらのほうが読みやすい。IMEでもATOKでもいいけれど、漢字変換をしすぎないような設定にしてくれないだろうか。制御が難しいと思うのだけれど、漢字の文節が一定以上近づかないように調整するとか、文末をあまり変換しない(〜下さい、では無い、考える、など)とか。あるいは有名な知識人の文章をかたっぱしからスキャンしていって、その変換をならうとか。そうしたらブログ上の文章とか、けっこう変わるんじゃないかとおもう。
僕は文章の巧さとか稚拙さというのは、言い回しであるとか用いる語彙とかで決まるものではないと思っている。そうした表層を飾れば人を引き付ける文が書けるなんて風には思っていない。そういうテクで人を惹きつける文が書けるのだとしたら楽なのだけども。 毒にも薬にもならない文というのは結構あって、つまるところ、読んだ後に自分になんらの影響を及ぼさない文。これは、表現方法によって決まるものではなくて、語られる内容によって決まるもの。例え恋空のようなケータイ小説調で書かれていたとしても、それに共感するだとか、何かに気づかされるだとか、何かを考えされられるだとか、その文を読んで自分が変わったと思えるなら価値がある。 そうなると、人に読まれるような文章を書きたいと願うならば、結局のところは人に「なるほど」と思ってもらえるような考察をするだとか、人に面白いと思ってもらえるネタを探し出してくるだとか、そういう苦労を
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「メモリ」と「メモリー」はともにmemoryのカタカナ読みで、辞書的には表記揺れという以上の差異はありません。でも二つの表記を見比べて、全くなんの違いも感じないという人は少ないでしょう。 「メモリ」はコンピュータの分野とかでよく見られる表記で、これを見ていきなり「思い出」という意味を連想する人はあまりいないと思います。逆に「メモリー」という言い方にはやや情感的なイメージがあるはずです。両者を使い分けたいときというのがあって、「メモリーカード」は別に「メモリカード」でもいいんですけど、ラブソングの歌詞とかだと「恋のメモリ」よりはやっぱり「恋のメモリー」と書きたいものです。 年代とか文化層で認識の差はあるでしょうけど、こういう言葉のニュアンスの差、というものは歴然と存在します。そして、ある種の文章表現は、こういう表記揺れすら武器とします。 文章作法的な話で、ひとつの文書の中での表記は統一しなけ
今、ブームといえば…そう、ウーパールーパーですね。 あの白くて柔らかそうな皮膚、むき出しの感じが最高…全身性感帯っていうイメージです(^v^) ―冒頭からボケると読者が逃げてしまうことを知りながら、やめられなくて困っているのですが、正気に戻ります。 今、ブームなのが「〜するたった一つの方法」というタイトルの記事。ネットのあちこちで見かけますが、これをお読みになっている皆さんも「よし、ワシも『〜するたった一つの方法』をいっぱい書いて有名ブロガーになり、女にモテまくりたい*1」とお考えのところかもしれませんが、あわてることなかれ…「〜するたった一つの方法」をただ書くだけでは、成功するとは限りません。下手に書いてしまうと、羊頭狗肉(まあラムが嫌いな人にとっては羊頭の時点でドン引きでしょうけど)であるとガッカリされて愛読者にザ・グッバイされるおそれがあるため、下記を実行することをオススメします。
ブログを書いていて、あるいはブログ以外の文章を書いていて、文章が揺らいでいるなぁと思うことはよくありますね。 書いていておそらくまだ自分の中にあるものが曖昧なのだと思います。曖昧なのにどうして文章にしようとするかというと、曖昧だからこそ文章にして、つまり見える形にして、「少しでも整理しよう」としているのではないかなぁ。 日記など書きたいことを書けばすっきりする。あるいは喋りたいことを喋ればすっきりするというのはありますね。 深く考えすぎると余計にわからなくなってくることってありますねー。深みにはまるというのかな。 ココで、ブログは『タイトル』と『書き出し』で読む読まないを判断しているんじゃないかな、と思う一方、最後まで読んでいる自分もいたりします。そんな中で『タイトル』と『書き出し』で損をしているなぁと思う記事もしばしば見かけますね。 『タイトル』と『書き出し』は重要と書きながら、逆に、別
読書論が今、話題です。私も、昨日読書を単なる知識取得ツールで終わらせるのはモッタイナイで、自分の読書法を書いたのですが、ちょうどアマゾンから勝間和代さんの「読書進化論」がタイムリーに届いたので、仕事先に向かう移動最中に一気に読みました。 読書進化論?人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか? (小学館101新書) 作者: 勝間和代出版社/メーカー: 小学館発売日: 2008/10/01メディア: 新書購入: 10人 クリック: 79回この商品を含むブログ (222件) を見るさすが、大ヒット連発の勝間さんだけに、独自の読書論。読書法だけでなく、WEB(このようなブログとの連動の仕方)、本のマーケティングの仕方まで多彩な切り口。 その中で、私が特に勉強になったのが、本の書き方というか、文章の書き方ですね。ヒット本とは、みずしらずの人達にさえ受け入れられる文章だと思うのですが、そのように
語彙力について考えてみた。 語彙力は、ないよりもあった方がいい。つまり言葉は知っておいた方がいい。語彙力があれば、適切に表現できるし、微妙なニュアンスを大事にして言葉を使い分けたい。言葉の微妙な違いを楽しめるのも日本語の面白いところで、院で言語学を勉強しようと思ったのも言葉が好きだからだ。言葉の持つ力。言葉が引き寄せるもの。言葉がこころに及ぼす影響。文字が意味として人の中に入っていく、その不思議な現象をとても面白く思う。優しいほんわかとした物語を読めば、優しい気持ちになれる。逆に殺伐とした悲壮感漂う物語を読めば、そんな気持ちに自然となってくる。物語に限らず、文章でもニュースでもそうだと思う。悲惨なニュースを聞けば、やはり暗い気持ちになる。 言葉の力、言葉というのはすごいものだと思うわけで、言葉は人を傷つけることもある。けれど、逆に言葉で救われることもある。生きていればなんだかんだとある。思
http://anond.hatelabo.jp/20081113121012 この人、「文章が上手くなりたい」って、どういう意味で言ってるんだろう。 「文章力がある」ってのは、イコール、ボキャブラリーが多いことではない。 もちろん小難しい文章を長々と書くことでもないし、 敬語や謙譲語を間違えずに使ったり、文法的に正しい日本語を綴ることでもない。 文章力というのはただ一点、 「自分の言いたいことを、【端的に】【わかりやすく】相手に伝えられる能力」のことだ。 だから、文章力を上げるために最も重要なことは、実は、文章の練習をすることじゃない。 頭の中で、言いたいことがきちんとまとまっているかどうか。ポイントはそこに集約される。 実は、文章を書こうとするその時点で、もうその文章のデキはある程度決まってしまっているのだ。 頭の中できちんと言いたいことが整理されていれば、それを文章として並べていくだ
文章が書けなくなりました。 「ここに書いてるやんけ」と思うかもしれませんが、それはここがほぼ完全に匿名だから。 正確に言うと「自分のブログを更新できなくなってしまいました」ってことです。 ネタがないわけじゃない。 時間がないわけでもない。 書こうと思うといやな気分になる。 なんでだろうか。 以前はもっと楽しんで書いていたはずなのに。 「ここ変えたらもっと面白くなるんじゃね」とか独り言言ってました。 完成した文章を見て一人で笑っていました。 ええ、とても痛い子でした。ほんとうに。 でも面白かった。 自分で楽しんでいたころの文章は今見ても面白い。 他人が見て面白いかどうかはよくわからないけど、知り合いには好評だった。 でもある時期からぜんぜん面白い文章がかけなくなった。 記事の没が増えた。 記事を書いていても楽しくない。 書いた記事を見ても面白くもなんとも無い。 ブログを書くことが苦痛になって
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