2018年1月18日のブックマーク (5件)

  • 英国で「孤独担当相」新設、現代社会の「悲しい現実」に対処

    英ロンドンで毎年行われるチャリティーパンケーキレースに参加した、トレイシー・クラウチ下院議員(2013年2月12日撮影、資料写真)。(c)AFP PHOTO / ANDREW COWIE 【1月17日 AFP】英国のテリーザ・メイ(Theresa May)首相は17日、「あまりにも多くの人々」が置かれている「現代の暮らしの悲しい現実」に対処するために「孤独担当相」を任命した。 文化・メディア・スポーツ省でスポーツと市民社会を担当するトレイシー・クラウチ(Tracey Crouch)政務次官が新設された「孤独担当相」に就任し、英国社会の孤独問題に取り組む。 メイ首相は「わが国の社会、そしてわれわれ全員が抱える孤独という問題に向き合い、高齢者や介護者、愛する人を失った人々──話をする相手や自分の思いや体験を分かち合う相手がいない人々が直面している孤独に対し、行動を起こしていきたい」と述べた。

    英国で「孤独担当相」新設、現代社会の「悲しい現実」に対処
    clonicluv
    clonicluv 2018/01/18
    ある日、玄関の前に女の子が立ってるの?
  • ピョンチャン五輪 アイスホッケー女子南北合同チーム結成へ | NHKニュース

    韓国統一省は、来月9日に開幕するピョンチャンオリンピックへの北朝鮮の参加をめぐる南北の次官級の実務協議で、アイスホッケー女子の南北合同チームの結成と、開会式で南北がそれぞれの国旗ではなく朝鮮半島が描かれた「統一旗」を持って、合同で入場行進することで合意したと発表しました。

    ピョンチャン五輪 アイスホッケー女子南北合同チーム結成へ | NHKニュース
    clonicluv
    clonicluv 2018/01/18
    外される選手の気持ちは…監督も切れるわな…
  • 韓国・釜山の区役所、米有名芸術家の作品を「目障り」として廃棄 (AFP=時事) - Yahoo!ニュース

    【AFP=時事】韓国・釜山市の海雲台(Haeundae)のビーチ脇に設置された米国人アーティスト、故デニス・オッペンハイム(Dennis Oppenheim)氏の遺作の一つが「目障り」になったとの理由で、市当局によって解体されたことが明らかになり、芸術愛好家らが衝撃と怒りをあらわにしている。 【関連写真】釜山のビーチに展示されたオッペンハイム氏の作品 オッペンハイム氏は、コンセプチュアル・アートやパフォーマンス・アートの他、彫刻でも活躍したアーティスト。作品は仏パリのポンピドー・センター(Pompidou Centre)や米国のニューヨーク近代美術館(MoMA)など世界各地のそうそうたる美術館に収蔵されている。 だが海雲台区役所にとって、そんなことは大したことではなかったようだ。 海雲台区の当局者はAFPの取材に対し、設置した場所と時期が悪かったと説明。「Chamber」と題された彫刻作品

    韓国・釜山の区役所、米有名芸術家の作品を「目障り」として廃棄 (AFP=時事) - Yahoo!ニュース
    clonicluv
    clonicluv 2018/01/18
    “「Chamber」と題された彫刻作品は、潮風でさびが発生した上、2016年の台風で損壊” したから目障りになった訳で、このタイトルはなあ
  • 安倍首相との会談直前に辞任 ルーマニア首相に批判噴出:朝日新聞デジタル

    16日に安倍晋三首相と会談するはずだったルーマニアのトゥドセ首相が、直前に辞任した。同国では日との経済関係の重要さを踏まえ、この混乱に批判の声が噴出している。 昼会のキャンセルなど当初の予定が大幅に変更され、メディアでは元閣僚らが「日人は細かい手続きや儀礼にこだわる人たちなのに」「侮辱だと思われる」とコメントした。ネット上の書き込みでは「こんな政府が私たちの代表なんて恥ずかしい」「あまりにも失礼だ。日人は世界で一番丁寧な人たちなのに」といった失望の声が出た。 欧米メディアも、安倍首相が到着した際、会うはずだった首相がいなくなっていたことを「最悪のタイミング」などと報じた。 首相の辞任は与党・社会民主党の支持を失った結果で、与党の最高実力者ドラグネア氏は、この混乱で勝ったのは「党だ」と豪語した。ヨハニス大統領は16日に防衛相を首相代行に指名していた。次の首相は同党女性部門のトップのダ

    安倍首相との会談直前に辞任 ルーマニア首相に批判噴出:朝日新聞デジタル
    clonicluv
    clonicluv 2018/01/18
    “メディアでは元閣僚らが「日本人は細かい手続きや儀礼にこだわる人たちなのに」” あっはい
  • 北元の歴史 - 元王朝がモンゴル高原に撤退して以降 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    Photo by Al Jazeera English 明朝成立後も約280年モンゴルで続いた元朝 1368年、元朝の順帝(トゴン・テムル)は明軍に追われて都の大都(北京)を脱出し、北方に逃れました。 これをもって華北は再び華人の天下となったのですが、北に逃れた元朝はその後も健在で、しばしば華北に攻め入り、明皇帝・正統帝を捕虜にする(土木の変)など、北方から明を脅かし続けました。 1636年、後金国のホンタイジが諸部族から「モンゴリアの支配者」の称号を推挙され、後金が清朝に変更したことで元朝は正式に消滅しました。 そのあいだの280年間の元朝の歴史を見ていきたいと思います。 1. モンゴル高原に撤退した元王朝 Image by Khiruge フビライ・ハーン家の王位断絶 北方に逃れたトゴン・テムルは2年後に死亡。 長男アユルシリダラと次男トクス・テムルは華北の回復を目指し、明と軍事対立を

    北元の歴史 - 元王朝がモンゴル高原に撤退して以降 - 歴ログ -世界史専門ブログ-
    clonicluv
    clonicluv 2018/01/18
    おもしろかった。それから、これは気になる “トクス・テムルの長男は殺害され、次男は明に降伏し後に琉球に流されました”