奈良時代の女帝・称徳(しょうとく)天皇の寵愛を受け、陰の天皇ともいわれた高僧、弓削(ゆげ)の道鏡が建立した由義寺(ゆげでら)跡とされる大阪府八尾市の東弓削遺跡で、「優婆夷(うばい)」「寺」と墨で書かれた土器が見つかっていたことが23日、分かった。 優婆夷は、寺への資金援助をした在家の徳の高い女性信者を意味し、由義寺が天皇や信者の手厚い支援を受けていたことが判明。八尾市文化財調査研究会によると、「優婆夷」と書かれた土器は全国でも例がないといい、貴重な資料になりそうだ。 東弓削遺跡では昨年、20メートル四方の塔の基壇(きだん)跡が見つかり、奈良・東大寺にあった七重塔に次ぐ高さ60〜70メートルの七重塔と推定され、道鏡の強大な権力を裏付けられた。 土器は塔跡の北東約600メートルで、由義寺と一体で築かれた天皇の離宮「由義宮(ゆげのみや)」跡と推定される一角から出土した。素焼きの皿(直径17センチ
東北有数の古刹(こさつ)で、9世紀初めの開山とされる勝常寺(湯川村)の薬師堂西側の発掘作業で、「寺」と書かれた9世紀の土師器(はじき)が初めて出土したことが1日、同村教委への取材で分かった。開山当初の状況は史料がなく不明確だったが、この墨書土器の発見で伝承の通り寺院関連の機能を持っていたことを裏付ける史料となった。 同村教委によると、同寺は807(大同2)年、天台宗の開祖・最澄の論敵として名をはせた法相宗の高僧・徳一(とくいつ)が開山したとされる。しかし、当初の寺院名は不明で、勝常寺と呼ばれるようになったと確認できるのは14世紀となっている。これまで墨書土器は約10点出土しているが、遺跡の性格を物語る文字史料としては初めての発見。 このほか古代期の溝跡、近くで見つかっている大型建物跡に付随する小穴(ピット)も確認された。同村教委の梶原文子主査(44)は墨書土器の発見について「開山当初、この
福岡県太宰府市教育委員会は26日、同市の国分(こくぶ)松本遺跡で、尼寺を意味する「花寺」と墨書きされた平安時代前期(9世紀初め)の土器が出土したと発表した。一帯は古代の筑前国分尼寺(こくぶんにじ)跡と伝えられており、寺院とみられる遺構も確認されていたが、市教委は「尼寺であることを示す初の物証」と注目している。 市教委は1月から市道工事に伴う発掘調査を行い、掘立柱(ほったてばしら)建物3棟の跡や井戸を確認。底に「花寺」と墨書きした皿(直径14センチ)のほか、仏殿や仏像の装飾に使われたとみられる金箔(きんぱく)を施した玉も出土した。 「花寺」は、奈良時代に国分寺とともに各国に建立された国分尼寺の正式名「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の略称。総国分尼寺である奈良県の法華寺のほか、千葉県や山梨県の国分尼寺跡などで墨書土器の出土例がある。九州での出土は初めて。 今回の調査地一帯は、江戸時代の
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