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伊藤剛に関するcrea555のブックマーク (2)

  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。 内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな 書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。 もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内

  • 紙屋研究所 :: 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 ふたたび

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび 「ユリイカ 詩と批評」誌(2006年1月号)の特集「マンガ批評の最前線」は、事実上、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の特集になっている。また、「論座」誌(2006年2月号)の「特集・マンガはいま」も冒頭の伊藤・夏目房之介・竹熊健太郎の座談は、やはり伊藤の同書の意義を論じようとしたものだ。 だが、この(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)の漫画評論における意義がどのあたりにあるかは、これらの特集からは正直わかりにくかった。ただし、それは無意味な特集だったということではなく、「わかりにくかった」という意味であって、ぼくとしてはそれを考えるうえで、さまざまな刺激をうけた。 ぼくは『テヅカ・イズ・デッド』についてすでに感想を書き、大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』との比較でも書いたが、いまこうした特集を読んでみて、自分なりに『テヅカ・イズ・デッド』

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