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ブックマーク / www1.odn.ne.jp (19)

  • 矢口高雄『9で割れ!!』

    矢口高雄『9で割れ!!』 矢口高雄『9で割れ!』は、高度成長期、矢口が漫画家になる前の銀行員時代のことを描いた自伝的漫画である。 銀行がシャッターを閉めてから出納と伝票の結果をあわせて一致していれば仕事終了のメドがたつが、一致していないと「出納事故」となり、勘定間違いや集計ミスをさがして一致するまで繰り返される。 そのとき、まず最初にやる作業が「9で割る」ことなのだ。一番犯しやすいミスは桁を間違えて記入することである。たとえば1万5千円を15万円と記入すると、13万5千円の不足が生じるが、その不足額を9でわると13万5千円÷9=1万5000円とたちどころに元の記入ミスをしている数字が発覚するのである。これがタイトルの「9で割れ」の由来である。 最近まで信金に勤めていた女性に聞いたのだが、今でもやるそうである。 1円でもミスが許されず、そのために膨大なエネルギーを消尽するという銀行の世界を象

    crea555
    crea555 2015/07/12
  • 古谷三敏『寄席芸人伝』 - 紙屋研究所

    古谷三敏『寄席芸人伝』 中学の同級だった女性が落語にハマッている。 中学時代は落語など見向きもしなかった人であったが、いまや新宿の末広亭に日参するというほどの入れ込みようである。「もう落語ブームも下火じゃねーのか?」と思う人もいるかもしれないが、まったくそんなことはないようである。 こうしたなかで古谷三敏の『寄席芸人伝』の新装版を屋でみかけるようになった。半年ほど前に読みたくなって文庫を探したのだが、そのときはどこにもなかったので、これは嬉しかった。即買い。 漫画の世界にも寄席や噺家を扱ったものは少なくないのだが、やはり作の右に出るものはない、というのが今のところのぼくの感想である。 ぼくがはじめて落語にふれたのは小学校4年生のときだった。ラジオで放送された古今亭志ん朝の「大工調べ」を兄がテープに録音したもので、それも最後まで演じたものではなく、有名な啖呵をきるあたりで終わってしまう、

  • ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』1巻

    ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』1巻 ※3巻の短評はこちら 小中学生のころ、通信簿は5段階評価でほとんど「5」だった。というのは、しがない自分史の、みじめな自慢ではなく、そのなかで「体育」(このいいかたは、戦前の名残りではあるが、とりあえず使っておく)だけは「劣等生」でありつづけ、そのことが当時のぼくの、しょうもないプライドを傷つけつづけた。 うまれつき「運動神経」のにぶい者は、どうやっても上達しはしない、それは持って生まれた素質であり、体格であり、体力なのだ――こういう諦観がずっとぼくを支配していた。 「体育」とはいったい、どのようにしたら上達するものなのか、まったくわからなかった。小学生時代はサッカー部、中学生時代はテニス部だったが、まるでうまくならない。やみくもにパスやシュートを数多く打ってみる。乱打をしてみる。だが、流した汗の量に比例してうまくなるわけではない。それどころか、下か

  • 清水義範『大人のための文章教室』

    清水義範『大人のための文章教室』 「○○が最高に面白いです」 「かっこいい漫画でした。とくに第2巻がオススメです」 「ものすごく感動する漫画。ストーリーがGOOD!」 前にも書いたけど、こういう漫画の感想のサイトを読むと、どないせえっちゅうんじゃ、と途方にくれる。いや、自分も時々やっちゃいますけど。 「『感動した』とか『面白かった』などという言葉でまとめることは、この漫画のよさを薄めてしまう。何もいいません。とにかく買って読んで下さい」式の文章は、たしかに言葉にしてしまうことで、漫画が持つ豊かな全体性が失われ部分化されてしまうような危惧を感じるためにそう言うのだろうが、しかし、感想や批評としての任務を根的に放棄しているといわれてもしかたがないものだと思う。 こうの史代(『夕凪の街 桜の国』)にたいするネット評に多かった。 「その景色を、友人に説明するんだと考えてみよう。とにかくすごいんだ

  • 夏目房之介『マンガ学への挑戦』

    夏目房之介『マンガ学への挑戦』 このは、表題が示すように、漫画学の課題がどこにあるのか、という問題を、作者→作品→読者という大づかみな流れにそって、その概略的な見取り図を提示したものである。この大雑把な流れの中に著作権、制作システム、市場の問題などが入ってくる。 しかし、そのなかでも軸になっている問題はやはり「進化する批評地図」という副題にもあるように、漫画批評の問題である。 夏目は、このの中で、戦後の漫画批評の方法の変遷をたどりながら、自分の批評方法、すなわち「漫画表現論」ともいうべき方法がどのように先行の批評の批判として確立してきたかをのべる。 夏目の総括は次のようなものである。 戦後、漫画批評は「教育論的漫画論」から出発する。すなわち、漫画が子どもたちや教育にあたえる「悪影響」について論じられ、またそれにたいする反論として論じられた。 1960年代に入り、鶴見俊輔や石子順造などを

  • 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』

    大塚英志・大澤信亮 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』 「なぜ敗れるか」などという表題の問題提起とはまったく別に、一読して伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』が頭に浮かんだ。 これは、伊藤自身がブログで告白していることでもある。 最近でも、ある雑誌(※1)の鼎談のなかで、伊藤は大塚のについて、「問題意識が近いところがいくつかありました」「〔伊藤の書いた『テヅカ・イズ・デッド』が――引用者注〕あと三ヶ月遅れていたらやばかったと思う」とのべている。 また、これも伊藤自身が告白していることだが、「結局、僕も大塚さんの『記号的身体の呪縛』や『アトムの命題』(徳間書店)を下敷きにしているわけなので、モデルが似るのは当然なんですね」と述べているように、既視感があって当たり前なのである。 ただ、結論からいえば、ぼくは、伊藤にない、非常に大事な点を大塚に見た。 大塚が日の戦後史を広く反映させた立論をし

  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。 内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな 書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。 もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内

  • 紙屋研究所 :: 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 ふたたび

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび 「ユリイカ 詩と批評」誌(2006年1月号)の特集「マンガ批評の最前線」は、事実上、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の特集になっている。また、「論座」誌(2006年2月号)の「特集・マンガはいま」も冒頭の伊藤・夏目房之介・竹熊健太郎の座談は、やはり伊藤の同書の意義を論じようとしたものだ。 だが、この(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)の漫画評論における意義がどのあたりにあるかは、これらの特集からは正直わかりにくかった。ただし、それは無意味な特集だったということではなく、「わかりにくかった」という意味であって、ぼくとしてはそれを考えるうえで、さまざまな刺激をうけた。 ぼくは『テヅカ・イズ・デッド』についてすでに感想を書き、大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』との比較でも書いたが、いまこうした特集を読んでみて、自分なりに『テヅカ・イズ・デッド』

  • 紙屋研究所 :: 新城カズマ 『ライトノベル「超」入門』 文化運動としてのライトノベル

    新城カズマ『ライトノベル「超」入門』 職場の同僚と飲んで(ジョッキにビール1杯)別れたあと、地下鉄に乗っていたら急に気分が悪くなる。激痛。脂汗がダラダラ。「寝不足で疲れているときに飲むと出るアレだよ」と、気が遠くなりながら思う。急性腸炎みたいなやつだ。 もうダメ。と思った矢先、到着駅が見えてきた。天国の光のようだった。しかし、電車が止まるまでが異様に長く感じられ、ドアが開いたとたん、まろび出て、まずは目の前のベンチにへろへろとたどりつく。 失禁の危機というのではなく、激痛で倒れそうになるのだ。前、これに遭って、飲み屋(チェーン店系)で救急車呼んだなー。店長らしき男が青くなって「呼ばないでくれ」と叫んだが、ぼくの友人が「何言ってんですか!」と怒鳴った。ありがたいなあ、友人。いやそいつは当の親友だと思ったね。 ベンチにすわっていていったん波がおさまる。次の波が来るまでが神が与えたチャンスだと

  • 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』 - 紙屋研究所

    竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』 ※このテーマをはじめて読む人には少し分かりにくい、という評をいただいたので、ちょっと改稿。 『人は見た目が9割』の著者。 最近、まったく漫画には縁がなさそうな同僚(別の部署の上司)に『人は見た目が9割』をすすめられていたのだが、こんな「つながり」で再びこの著者と邂逅するとは思わなんだ。 著者は大学で教えながら現在は漫画原作などの著述業をしている。 「日初の漫画評論」? それにしても、このはすごい。すごすぎる。 いや、中身がすごいというより、なにせ「日初の漫画評論!」とオビに銘打っているのだから。はじめ「著者初の」かと見間違えたのかと思ったけど、何度眼をこすりをひっぱたいたりしてみても「日初の」と書いてある。 「はじめに」に、こうある。 「私には、マンガ研究家によるマンガ論が物足りなかった。マンガしか知らない人が多いのである。学

  • 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』のサントリー学芸賞受賞にあたっての雑感 - 紙屋研究所

    竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』のサントリー学芸賞受賞にあたっての雑感 ※竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』の感想はここ 「学芸」となったからには言わせてもらう 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』がサントリー学芸賞を受賞した。 サントリー学芸賞といってもぼくは全然なじみがなく、さすがに初めて聞くということはないが、小熊英二『単一民族神話の起源』がもらった賞だという印象があって、それゆえになかなかの賞であるなあという畏敬の念を多少とも持っていた。 ぼくは、竹内の同著について、一定の意義は認めつつも、まあ分類すれば「酷評」にちかいことを述べた。 受賞したと聞いて、再読してみたが、感想はあまり変わらない。 つか、p.211~213の「マンガ評論家の限界」という節は、ずいぶんとぼくが線を引いた後がいっぱいあるのだが(笑)、あらためて読んでみてひどいと思う。 漫画原作

  • 岩明均『雪の峠 剣の舞』 - 紙屋研究所

    岩明均『雪の峠 剣の舞』 2つの短編、というのか、中編をおさめる。 「雪の峠」は関ヶ原で西軍に着いたために石高を3分の1に減らされたうえ、常陸から出羽(秋田)へ移封された佐竹家の話。「剣の舞」は、戦勝の勢いで民家で略奪を働く武士たちに拉致・輪姦され、家族も皆殺しにされた少女が、男装して武術を修め、復讐する話。 岩明均は、よい要素が決まっている。換言すると、岩明の作品で「良い」と思える要素は次の3つに限定されている。 突然の暴力を、人間の肉体が裁断される瞬間で静止させてキャプチャーし、壮絶な緊迫感を生み出す。 少女のエロス。つか、岩明の少女への欲望。 小賢しいともみえる知恵者が、世間に評価されない知性を発揮。 ホントに決まってんだ。ぼく的には。 (1)は言わずと知れた、岩明の代表作『寄生獣』。 宇宙から来た寄生生物が体に侵入し、鋭利な刃物のように寄生した人間の体を自由に変型させ、相手を切り刻

  • カラスヤサトシ『カラスヤサトシ』

    カラスヤサトシ『カラスヤサトシ』 ジャイアンがフロに入ってオナラのあぶくの大きさを測り、ひそかに自己記録をつけていたとわかったときは誰もが衝撃だっただろう。いや、最高度の衝撃は、のび太の友人(名無しのキャラクター)がハナクソをひそかにためて巨大なボールをつくっていたことだろう。 「ひそかにためたハナクソが こんなボールになった」 トーンで処理された「ハナクソボール」をみて妙に興奮したぼく。それは、ぼく自身が巨大な耳垢をためていたことがあるからだ!(1回分の巨大なもの、という意味であって、ためた耳垢が巨大だったのではない) 抜けた乳歯とかもな! つまり自分だけのだれにも曝せない思っていた性癖が、『ドラえもん』という最メジャー漫画のなかで共有されていることに衝撃を受けたのである。しかも、そこで描かれたものは、自分の秘史をさらにこえて徹底的なものだった。藤子・F・不二雄が描いた「ハナクソ・ボール

  • 紙屋研究所 - 『あしたのジョー』の脇キャラたちにいま一言いわせたい/白木葉子を論ず

    『あしたのジョー』の脇キャラたちに いま一言いわせたい 【林屋のおじさん】 だめだよ。角にイ●ーヨーカ堂が出来ちゃってさ。客なんか来やしねえ。乾物屋は閉めて、いま紀子がそのイ●ーヨーカ堂にパートに行ってるよ。 【マンモス西】 紀ちゃんとの間に30人も子どもが生まれて今『クッキングパパ』ちゅう連載もたしてもろうとるんや。『美味しんぼ』とか、材にこだわってるうちはあかん。どんな状況でうかが大事なんや。減量中にかくれてううどんは最高やで! 鼻から出た麺は昇天ものや。 うまいで! 【暴力おでん屋(ハゲの方)】 あれは矢吹丈が虚脱状態だったから勝ったんじゃないよ。矢吹なんて児戯同然。なのに豊福きこう(『矢吹丈25戦19勝(19KO)5敗1分』)はオレの勝利を書いていない。組んでた相棒は、あのあと仲間割れで殺した。 【金竜飛】 試合前に矢吹丈に生い立ち話をしたのは、私の心理作戦さ。私の計算ではあ

  • 小島アジコ『となりの801ちゃん』

    小島アジコ『となりの801ちゃん』 ぼくのリアル身近には「腐女子」がいない(except隠れ腐女子)。知っているのはネット上の腐女子のみなさんばかりだ。なので、腐女子がリアル生活においてどんな生態、思考様式をしているのかは、想像するしかない。 以前、杉浦由美子の『オタク女子研究 腐女子思想大系』について感想を書いたことがあるけど、どうもネットレビューをみるととりわけ同じ陣営にいるはずの腐女子たちから集中砲火をあびている。 アマゾンのレビューをみれば集中砲火のおおよその主張はわかるが、反論側の正確な腐女子像というものがあってそこからのズレや誤りを指摘するというものではない。誤記などをのぞけば、せいぜい「思想大系とか研究とかいうけどこれはエッセイである」「腐女子の一断面、あるいは一類型にすぎない」という「批判」であり、それはまあそうなのかなと思うし、そういうものと思えばそんなに目くじらたてんで

  • 間瀬元朗『イキガミ』 紙屋研究所

    間瀬元朗『イキガミ』 漫棚通信ブログ版でとりあげられていて、触発された。 http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_6654.html ずっと前に1巻を読んだとき、どっちつかずの読後感が残っていたんだけど、その正体がつかめない感じで、そのままにしているうちに忘れてしまっていたのだ。 あらすじ紹介は、面倒なので同ブログの紹介文をコピペ。 〈パラレルワールドの現代、日。国家繁栄維持法は、国民に命の尊さを認識させるため、無作為に選ばれた国民を1000人にひとりの確率で死亡させるという法律。小学校入学時に注射されたナノカプセルが肺動脈にひそみ、18歳~24歳で破裂して若者を突然死させる。人にその死亡予告証=「逝紙(イキガミ)」が届くのは死亡の24時間前です。 主人公は死亡予定者に「イキガミ」を届ける公務員。24時間後の自分

  • 山本弘『神は沈黙せず』

    弘『神は沈黙せず』 ※ネタバレはありますが、質的なものではないと考えます ※『アイの物語』の感想はこちら 大学合宿での夜の怪談のこと 大学1年のころにサヨ学生たちで合宿をやったことがあった。 夜、怪談になった。唯物論者の集団が怪談をやるというのもアレだが。 怪談というのは、たいていが「出処」が不明である。 いつ、だれが、どこで体験した話かはほとんどわからない。「昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが…」というおとぎ話とそう選ぶところはない。 まれに「俺の友人の知り合いの話なんだけどね…」などというふうに「身近な」体験として語られることはあるが、互換可能な曖昧なものだ。 そのときの怪談も、ほとんどそうした「出処不明」なものに終始した。 ところが、一人だけまったく風変わりな話をする人がいた。 アメリカのある州の名前と年代をあげて(具体的には忘れた)、突然イスがとびまわる例やものす

  • 夏目房之介『マンガと「戦争」』

    夏目房之介『マンガと「戦争」』 大学時代、入ってきた新入生に「おまえもコミュニストになれ」とオルグしていたとき、その新入生が「どうせ人類なんて『北斗の拳』みたいにいったん核戦争がおきてみんな死んじゃうんですよ」とうそぶいていたのを思い出す。あいつ、どうしたかなあ。 ぼくが彼の発言をよく覚えているのは、そのあと左翼の友だちと、彼の発言がけっこう話のタネになったから。『北斗の拳』をイメージのコアにおいているところ、そして「核戦争」や人類滅亡をひとつのリアリティとしてみているところが、ある種の典型のようでもあり、面白かったんだな。 あるいは、榛野なな恵『Papa told me』を読んでいるとき、主人公の知世が怖いものとして「核戦争」があげていたのをみて、そこに恐怖についてのリアリティを覚えるんだあ、と妙に印象に残ったこともまた思い出した。 ものすごく大ざっぱにいって、ぼくらの世代、20代後半~

  • あずまきよひこ『よつばと!』3巻

    あずまきよひこ『よつばと!』3巻 関係ないが、職場で「あなた、ヨン様に似ているな」と複数の人から言われる。ま、なんていうんですか。事実は隠せないとでも申しましょうか。 さて。 迷子である。 迷子というのは、人には悪いけども、かなりユーモラスな存在だと思う。 この前、新宿の東急ハンズ1階で迷子をみた。 母親とはぐれたらしく、絶望的な顔で「ママーッ」と大泣き(正確には大泣きなので「マ″マ″ーッ」であるが)しながら、彷徨。 ところが、泣きながらよろよろと歩くうちに、ハンズ1階のおもちゃ類の棚が、その子の目に入ってくる。すると、ピタッと止まって、じーっとそのおもちゃを見ているのである。そして、数秒後、自分が迷子であったことを「ハッ」と思い出し、また「ママーッ」と大泣きしてよろよろ歩き出す。しかし、また数歩いったところで、別の興味あるおもちゃを発見し、またじーっと見ている。そしてまた……と、断続的

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