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東欧に関するcrow_henmiのブックマーク (11)

  • ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件 - Wikipedia

    ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件(ジョルジェ・マルティノヴィッチじけん)は、1985年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国のコソボ社会主義自治州にて、セルビア人の農家・ジョルジェ・マルティノヴィッチ(セルビア語:Ђорђе Мартиновић / Đorđe Martinović、1929年 - 2000年9月6日)が肛門へのガラス瓶の挿入による負傷の治療を受けたことに端を発し、ユーゴスラビアの政界を巻き込んだ騒動に発展した事件である。その後長年にわたって真相は明らかになっていないが、この事件はコソボに住むアルバニア人とセルビア人の対立に大きな影響をおよぼした。 事件[編集] 1985年5月1日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義共和国のコソボ社会主義自治州の町・グニラネ / ジランにて、セルビア人の農家であるジョルジェ・マルティノヴィッチが病院に来た。このときのマルティ

  • バルカン諸国における「国王」の系譜 - Danas je lep dan.

    そういえば僕は昨年,紫音さんからあまりにも唐突なキラーパスを貰っていました。といいながら、バタバタしているうちにMukkeさんあたりがロシアドイツの大統領制について論考した挙句に東欧の元首制度比較をやるとみた(キラーパス)お返事などなど - 戯言 by 紫音 よろしい,では,近代バルカン諸国の君主制について比較(?)するエントリを上げましょう。概観 そもそも近代バルカン諸国というのは,フランスやイギリス,プロイセンのように元からあった王国が発展していったのではなく,オスマン帝国からの独立運動やら列強の介入やらで「新しく作られた」国々なので,王家を成り立たせることができるような在来の貴顕があまりいません。ビザンツ王朝もセルビア王朝もブルガリア王朝もどっか行っちゃいましたし。 けれどそれらの国々ができた時,ヨーロッパの大国に君臨していたのは共和主義に怯える王様たち。新しく作られる国は王政が望

  • ナショナリズムとブルー・ブラッド――プロイセンにおける愛国主義の一形態についての備忘録 - Danas je lep dan.

    タイトルに釣られて専門からはちょっと離れたプロイセン史のを読んだ*1。多民族国家プロイセンの夢 -「青の国際派」とヨーロッパ秩序-作者: 今野元出版社/メーカー: 名古屋大学出版会発売日: 2009/06/23メディア: 単行Amazon.co.jpで詳細を見る 書はひとりの貴族の一代記だ。プロイセン貴族ボグダン・フォン・フッテン=チャプスキ伯爵(Bogdan Graf von Hutten-Czapski,1851-1937)は,その名からわかるようにドイツとポーランド,双方の血を引いている*2。 露墺普三国によるポーランド分割後,ポーランド・ナショナリズムの台頭に伴って旧ポーランド領は混乱に見舞われた。プロイセン領ポーゼン(ポズナニ)*3では,ドイツ系住民とポーランド系住民との間の対立が激化の一途を辿る。その辺の経過は↓のに詳しい。1848年革命―ヨーロッパ・ナショナリズムの幕

  • ハプスブルク帝国の国民統合と軍隊――極東に囚われた俘虜たちを通して - Danas je lep dan.

    近代国家における「国民」の創出に寄与する装置といえば学校と軍隊であるというのは今さら言うまでもないが,その事情は「いくつものアイルランドをひとまとめにしたような」*1ハプスブルク帝国においても変わることはなかった。  アウスグライヒ(Ausgleich)後のハプスブルク帝国,すなわちオーストリア=ハンガリー帝国の共通軍は,諸民族に最低限のドイツ語能力だけを要求し基的には民族語で兵営における生活を営むことができる場であった。それは立派に国民統合機能を担っていたと言っていいだろう*2。  しかしながらそれは諸民族の配属などの絶妙なバランスの上に成り立ったもので,根的に非常時の制度では有り得なかった。大津留厚の表現を借りれば,「ハプスブルク軍は戦争をしてはならない軍隊だった」*3。総力戦という新しい戦争のかたちはそのような統合を容赦なく突き崩した。弱体のハプスブルク軍が,中欧の同盟国ドイツ

  • TechCrunch | Startup and Technology News

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  • 壊れる前に…: ピレシア人は国に帰れ!

    Fond Only Of Hungarians ― 最近行なわれた世論調査でハンガリー市民の外国人嫌いが進んでいることが分かったという IPS の記事。1989年に社会主義体制が崩壊した後、言論の自由は進んだものの、失業や未来に対する絶望感も増え、それとともに民族主義的な考え方や排他的な感情も高まってきたという。 ブダペストの Tarki 社会学研究所の行なった調査によると、あからさまに他民族排斥的な考え方を持っているのは人口の4分の1に過ぎないが、ハンガリー国内にいる他民族に対して拒絶感を持っている人は、着実に増えている。質問項目の中には、ルーマニア人、ロシア人、アラブ人、中国人など実際に移住者がいる民族に加えてピレシア人(Piresians)という架空の民族に関するものも含まれていて、「ピレシア人がハンガリーにいること」に対する反感は昨年より9%も増えて68%にも達した。進歩的な Né

  • ウクライナの森に潜む武闘派美少女集団

  • 〜Aufzeichnungen aus dem Reich〜 帝国見聞録: 【歴史観察】 そしてコドモの国の議論!!!

  • 軍防諜員のチェチェン生活

  • ケーレシ・チョマ・シャーンドル - 石陽消息

    チベット学の開拓者ケーレシ・チョマ・シャーンドル(1784−1842)は、初めての蔵英辞典を作ったことで知られている。セーケイ地方のケーレシュ村に生まれ、ナジエニェド(アユド)の高等学校とゲッチンゲン大学で学んだ。ハンガリー人というのは、東方への憧れを持っている。自分たちが東からやっていたことが心に刻みこまれていて、「マジャール(ハンガリー)人の故郷」を探すロマンチックな旅を東洋へ向けて行なう人々を輩出する。ケーレシ・チョマもそのような一人であった。ラサへの旅の途上、ダージリンで病没した。その地の墓碑にはこう書かれている。 アレクサンダー・チョマ・ケーレシ ハンガリーに生まる。/氏は言語学上の研究調査のため、/東洋に赴き、/幾星霜の艱難辛苦によく耐え、/学問に献身し、/氏の名を不朽に残す記念碑的著作/『チベット語辞典及び文法』を編纂す。 さらに研究続行のため、/ラサに赴く途上、/一八四二年

    ケーレシ・チョマ・シャーンドル - 石陽消息
    crow_henmi
    crow_henmi 2006/02/18
    神話に翻訳された歴史。チベット学の創始者の数奇な運命と物語。
  • http://www.schemer.org/ars/temp/vampire.php

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