タグ

ブックマーク / agarih.hatenablog.com (24)

  • タタールを追って(3) - 石陽消息

    4.カザン・タタール人の民族形成 カザン・タタール人は、一言で言えば、金帳汗国から分かれて15−16世紀にヴォルガ川中流、カマ川と合流するあたりの地域に栄えた、イスラムを奉ずるカザン汗国の住民の後裔である。その版図の中核地域は今日のタタールスタン共和国に当たる。しかしカザン汗国の存在したのはわずか1世紀あまりである。それ以前の長い歴史があるのはもちろん、滅亡からもすでに450年を閲している。両者が単純に等号で結ばれないのは言うまでもない。 また、環境も違えば前史も異なるのだから、同じ金帳汗国からの起こりや、そこに由来する国のかたちをもつ他の諸「タタール」と違う、カザン独特のものは当然ある。それらの点に留意して見ていくことにしよう。 カザン・タタール人の歴史をたどることは、われわれが(自覚せぬ偏向教育の結果として)何気なくヨーロッパやロシア中心史観で眺めている民族や歴史の風景を、ステップから

    タタールを追って(3) - 石陽消息
  • タタールを追って(2) - 石陽消息

    3.歴史上のタタール 「タタール」という民族を歴史の流れで追うときには、13世紀のチンギス汗登場以前と以後に分けて眺める必要がある。それ以後この名称は、モンゴルと結びついて大きく拡散してしまったからだ。 「タタール」はもと中国の北辺にいた遊牧民であった。その信仰はおそらく固有の、シャーマニズムのようなものであったろう。しかしどの系統の言葉を話していたかは、よくわからない。いや、「タタール」と呼ばれる民族がある特定の一民族であったかどうかも、知れたものではない。 彼らに関する史料には三種類がある。漢文史料、西方(イスラム・キリスト教世界)史料、テュルク・モンゴル史料である。このうち第三のものがいちばん重要だ。彼らの属する文化圏の、同じ生活感覚や共通理解を持っていた人々の書き残したものであるから。このことを踏まえた上で、史料を単位として調べていくことにする。 <突厥碑文と13世紀以前の西方史料

    タタールを追って(2) - 石陽消息
  • タタールを追って(1) - 石陽消息

    <幻想のタタール> 韃靼ないしタタールという言葉には、聞く者のイメージを強く刺激する異様な力がある。司馬遼太郎のような人には、それがさらに強く感じ取れるようだ。「私は、こどものころから、「韃靼」ということばがすきであった。・・・銀色にかがやきつつ、夏の白雲のように大きくふくらんでゆくイメージがあり、人はみな異風で、ときに怪奇にさえ見えたが、うごきは敏捷で、鳥の影のように片時もとどまらない。しかもかれらはいさぎよかった」(「韃靼疾風録」あとがき)。そのようなイメージから作家は歴史小説を紡ぎだす。 小説家ならぬわれわれのタタールのイメージも、やはりどこかしら異風である。それはたとえば、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛)という詩的な幻視に感じる心でもあろう。「大明韃靼を平均し異国朝に名をあげし、延平王国性爺」こと和藤内が、「南京北京に押し渡り浮世にながらへ有るならば、呉三桂と

    タタールを追って(1) - 石陽消息
  • 五輪雑感 - 石陽消息

    最悪のオリンピックは、最新のオリンピックである。4年ごとの催しのため、前回のことは記憶に薄れているのだ。涙の谷間に生きる哀れな人間たちは、不快なことはさっさと忘れ、楽しいことはいつまでも記憶するように作られている。4年に1度とは、よくしたものだ。 競技がふえつづけて、こんなのいらんだろというようなのがうようよわいてくるのにも辟易するが(何でわざわざ町中に砂浜を作らねばならんのか、理解の外である。次は山を作って登りだすにちがいない)、いちばん不愉快なのはマスコミだ。メダル取ったの取らないので大騒ぎ。どのテレビ局も新聞も寸分同じことをじゃかじゃか垂れ流している。扱うのは日人選手のみ。中継のアナウンサーもニッポン、ニッポンとばかり叫んで暑苦しく、インタビューでは判で押したような同じことばを聞かされる。報道も「産業」であり、メダリストは「商品」になる。それを「消費」する人たちのもとへ、お望み通り

    五輪雑感 - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(7) - 石陽消息

    <「考古学者」柳田国男> 明治期に存在した学会で、のちの「民俗学者」たるべき柳田の関心にもっとも近いはずのものは人類学会だが、入会したのは非常に遅く、明治43年(1910)である(註43)。明治38年(1905)「人類学雑誌」には7篇を寄稿しているが、うち5篇は明治43年(1910)から大正3年(1914)に集中し、あとは昭和2−4年(1927-29)である。大正3年から中断するのは、もちろん自分の雑誌「郷土研究」に精力的に執筆していたからだ。「考古学雑誌」には、明治43年(1910)から大正2年(1913)までの間に、「十三塚」「矢立峠」など、塚や地名について6篇書いているが、これも「郷土研究」創刊からとぎれる(明治43年はひとつの画期であるようで、「歴史地理」にも書き始めている。それまでの寄稿は農政・法学・文学の雑誌ばかりであった)。 後から見て奇妙に思えるのは、人類学会より先に、まず

    対比と相似の「柳田学」(7) - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(6) - 石陽消息

    <対抗史学発言録> 柳田国男の一生を考えると、「戦う人」という感想をもってしまう。貴族院議長徳川家達と衝突して官界を去ったなどというエピソードにとどまらず、彼はやたらに戦っている。 「民俗学」確立期には、在来史学に激しく切り込んだ。従来の歴史学ではわからぬ婚姻制度の歴史を、多くの民俗資料を並べることによって再構成してみせた「婿入考」(1929)には、「歴史学対民俗学」のサブタイトルがつけられていた。これを当の史学会で講演したその頃の柳田の姿は、「鋭利な刃物でも見るよう」であったと、近くにいた有賀喜左衛門は述懐している。 歴史への強い傾斜があり、「「国民生活変遷誌」を以て、日民俗学の別名の如く心得」(「実験の史学」)ていた柳田の「民俗学」を考える場合、彼の「歴史」に対する見解をたたいておかなければならない。以下は彼自身の書いたものを集めたラフ・スケッチである。 「今日は学問上の材料の選択に

    対比と相似の「柳田学」(6) - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(5) - 石陽消息

    <悪口雑言集> 私は柳田の「悪口雑言」をこよなく愛する者である。 柳田という人は、折口信夫よりも詩人、南方熊楠よりも野人だと思う。詩を書かない詩人は、書く詩人よりさらに「詩人」である。彼の著作すべてが「詩」である、と言いたい気持ちに駆られる。また、初めから官途に就くことなく、紀州田辺という辺境に蟠居していた南方が野人なのは言うまでもないこと。官吏として一応の位を極め、それを辞してのち、あれほどの学識見識を有しながら大学に職を求めず、一貫して在野で活動した柳田国男が「野人」でなくて何であろう。その「詩人」にして「野人」の領が、彼の時折発する「激語」に現われている。 「学問に向ってどれだけ現代に役に立つかを尋ねるなどは、冒涜のように感ずる学者もあった。無遠慮に批評すれば、是ほど片腹痛い言い草はたんと無い。学問を職業にし、それで衣の資を稼ごうと企つればこそ賎しかろうが、弘く世の中の為に、殊に

    対比と相似の「柳田学」(5) - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(4) - 石陽消息

    <著作権の彼岸> ある学問がまさに形成されようとしているところに、ぜひ立ち会ってみたいものだと思う(もちろん学問でなくてもいいけれど)。公式の組織形態から離れた同志的な結びつきで、刺激や発想の交換を行なう瞳の輝く人たち。シャンパンの泡がはじけるような脳内の沸騰、周囲の活性化。著作権が生じるとき、それはもう死んでいる。凝固したもの、さらに言えば抜け殻にすぎないのだから。 柳田が「民俗学」への道を歩んでいたとき、いまだ固定しえぬ生成の息吹がそこここにあったに違いない。「山島民譚集」(1914)の再版の序(1942)の、「ほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いような処のあるのは、あの当時闊達無碍の筆を揮って居た此人の報告や論文を羨み又感じて読んで居た名残かとも思う」との柳田の述懐、「古代研究」(1930)の「追い書き」に「私は先生の学問に触れて、初めは疑い、ようやくにして会得し、ついには、我が生

    対比と相似の「柳田学」(4) - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(3) - 石陽消息

    <坪井正五郎と白鳥庫吉> 「後狩詞記」(1909)「遠野物語」(1910)は、言ってみれば聞書きにすぎない。往復書簡という妙な形式ではあるが、農政学以外で自分の論(仮説であっても)を立てた著書は「石神問答」(1910)が初めてである。これら三つの書物のうち、研究史的に、また伝記的に最も重要なのは、「遠野物語」ではなく「石神問答」だ。農政学ではすでに地歩を築いていた彼が、知識も方法も不十分であった「民俗学」の分野で、山中笑(1850-1928)・白鳥庫吉(1865-1942)・伊能嘉矩(1867-1925)などの尊敬する先輩たちに自分の考えをぶつけ、胸を借りて努力していたさまを示している。シャクジという正体不明の小さな神への疑問から始まり、道祖神・オシラ神・唱門師等々、のちに手がけるさまざまなテーマを萌芽的に含んでいる「暗中模索の記録」であり、「大きな題目の片端を捉へ」た「エチュドめきたる作

    対比と相似の「柳田学」(3) - 石陽消息
  • 対比と相似の「柳田学」(2) - 石陽消息

    <柳田の「道の友」たち> 柳田国男という人は社交的で、さまざまな会を組織したり会に参加したりして交友も広かった一面、自分の学問領域の周辺では、やたらに人と衝突する人でもあった。それも、優れた人物を選んだかのように角逐している。逆説的に、彼と衝突するのは一流の証だとも言えそうな気がする。柳田の学問の特質は、これらの人々を横に置くことで、より深く理解できるのではないかと思う。 南方熊楠との決裂が有名だが、家に住み込んだという点で「唯一の弟子」かもしれない岡正雄(1898-1982)も、耐え切れず逃げ出し、「破門」された格好である。折口信夫(1887-1953)は、何をされても師礼を尽くし、袂を別つことはなかったが(註30)、ふつうなら決別しているような仕打ちを何度か受けた。いっしょに「郷土研究」を編んだ高木敏雄の場合は、こちらも圭角多い人物で、当初から懸念されていたらしいが、案の定編集をめぐっ

    対比と相似の「柳田学」(2) - 石陽消息
  • 柳田覚書/対比と相似の「柳田学」(1) - 石陽消息

    柳田の内的発展は赤坂憲雄によって丹念に追われている。ここでは「外的」発展を、事件と人物から眺めてみることにしたい。そこにはさまざまな対照や相似が現われてきて、そのうちに柳田の特質をとらえることができそうなのだ。 <日近代史としての「柳田国男史」> ミクロコスモスとマクロコスモスの照応ではないが、個人史には全体史が映し出される。すぐれた個人史は、すぐれた全体史に呼応するだろう。「柳田国男史」は、その意味でみごとに「日近代史」である。「鳥居龍藏史」が「大日帝国の海外進出史」であったように。鳥居龍藏(1870-1953)は、遼東半島・台湾・北千島・満洲・朝鮮・東部シベリア・北樺太と、千島樺太交換・日清戦争・日露戦争・日韓併合・シベリア出兵等の結果として新しく手に入ったり占領したりしていた地域を調査した。そのこと自体は別段非難されることではなく、むしろ新付の地に学術調査を行なわなかったらその

    柳田覚書/対比と相似の「柳田学」(1) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(10) - 石陽消息

    <「民俗学」時代を悔やむ柳田> 女婿の堀一郎によると、終戦後のある日、柳田はこう語った。「私はね、消えていくものには消えていくだけの理由があり、それを元へ返せなどと考えたことも云ったこともない。しかし今度は違う。滅んではならないもの、滅ぼされてはならないものがある」。敗戦によって日人のこれまでの信仰が顧みられなくなるのを憂えたのである。そして、「新国学談」と題して「祭日考」(1946)「山宮考」(1947)「氏神と氏子」(1947)を矢継ぎ早に刊行した。同じく堀は、晩年の柳田が「惜しいことをした。昔話や方言などに熱を上げるんじゃなかった。もう時間が足りない」と口癖のように言っていたことを伝える(註27)。日人はどこから来たかという問題を扱った最晩年の著作「海上の道」(1961)は、沖縄への思いをこめて、学問的でありたいという意志に反して、きわめて詩的である。それは、ジュネーヴへ立つ直前

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(10) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(9) - 石陽消息

    <柳田国男とマージナルなヨーロッパ> ここではたと気づく。この手紙を含め、上に引いた手紙の中に出てくるのは、ほとんど東欧・ロシアの人ばかりである。彼のジュネーヴ滞在時の日記を見ると、東欧の影がそこここに差している。「セイケイ」というハンガリー人と知り合い、彼がアメリカへ渡るまでの間同居させてやっている。バレ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演を見に行ったり、オルテンのような田舎町でバラライカの演奏を聞きに行ってもいる。それまでの人生で、とりわけて東欧やロシアに関心を持っていた人ではないのに。東欧ではないが、やはりヨーロッパの辺境で、ロシアから独立したばかりのフィンランドについても、「フィンランドの学問」(1935)などで紹介している。新渡戸稲造の国際連盟時代の随筆「東西相触れて」に、ポーランドやチェコについての言及が多いのも思い合わされる。ある意味で「東欧の時代」、西欧に向けて東欧が溢れ出し

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(9) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(8) - 石陽消息

    <ジュネーヴ体験> おそらく、大正8年(1919)末に官を辞し、最初の3年は内外を旅行をさせるという条件で朝日新聞に入社して、沖縄旅行(ここからの帰途に、国際連盟委任統治委員になれとの話が電報で飛び込んできた)に出たときに、「前史」が終わり、後世の知るあの「民俗学者柳田国男」に向けての重大な一歩が踏み出されていたのだろうと思う。しかし、それを決定的にしたのは、「ジュネーヴ体験」(1921-23)である。 柳田の滞欧は、フレイザーを訪ねた、ベルリンの古屋でボアズに会った、などというエピソードにとどまるものではない。 ジュネーヴの柳田は、孤独を痛切に感じていた。「ジュネヴの冬は寂しかった」。沖縄の旅行記「海南小記」(1925)は帰国ののちに出版されたが、それはこんな文句で始まる。もう五十にも手が届くような歳で、彼にとって初めての一人暮らしであった。それも異国で。「今でもよく憶えているが、諫早

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(8) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(7) - 石陽消息

    <「柳田民俗学」の特徴> 彼の学問はよく「柳田学」と言われる。そのように、または少なくとも「柳田民俗学」と呼ぶのが正しい。彼の人格や興味が色濃く投影されているのだから。あるいは、みずからも言っているように、「新しい国学」と呼ぶのもいい。それはこの学問の質をみごとに言い表している。 「柳田民俗学」が日の学問体系の中で曖昧な位置しか占められないのは、それが「移植学問」でないからである。柳田がみずからの試行錯誤のうちに到達したもので、内発的な形成を遂げているのだ。西洋の刺激は形成に力があった。決定的な役割を果たしたと言ってよい。しかしそれは、神道と仏教の関係に譬えられよう。のちに「神道」として体系化を遂げるものは、むろん仏教移入以前からあったのだが、仏教の刺激によって、仏教にならって体系を得たのである。 柳田自身が示した「民俗学」の定義は、「民族の内省の学」である、というものだ。「自ら知らん

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(7) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(6) - 石陽消息

    <「日民俗学」の確立> 柳田の還暦の祝いに「日民俗学講習会」が催され、「民間伝承の会」設立、機関紙「民間伝承」が発刊された昭和10年(1935)に、「日民俗学」は確立したと言える(しかしなお「民俗学」の名称は会の名からも雑誌の名からも慎重に避けられていた。「民間伝承の会」が「日民俗学会」に改称するのは昭和24年(1949)のことである)。 実は、日の「民族学」の確立も昭和10年なのである。この年に「日民族学会」が設立された。人類学会が、生誕時の自然・文化両人類学、考古学を含んでいた曖昧な混沌から、自然人類学の学会に純化していく過程で、まず考古学が分かれ、それから大正末・昭和初期を通じて文化人類学の部門が自立をした、という大きな流れがそこにある。そして、ふたつの学名もそのときにほぼ確定したと見ていい。 結果から見れば、柳田による「民俗学」の独占が行なわれた、とも言えるだろう。「民

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(6) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(5) - 石陽消息

    <柳田の学問と「民俗学」の名称> 柳田自身の使用例を見てみると、どうだろう。柳田は、自分の研究を「民俗学」と呼ぶことに長くためらいがあった。「「民俗学」という語を普通名詞として使用することは日ではまだ少しばかり早い」。「民俗学というのは惜しい言葉であるが、我々は之を避けなければならない。少なくとも其内容が純化せられ、或程度の協同が得られる迄は、民俗学という語は日語にならぬ方がよい。それに此学問は今日はまだ組織だった「学」ですらもないのである」(「民間伝承論」)。そのことは雑誌の題名にも見られる。彼が編集にあたった雑誌は、「郷土研究」「民族」などという名であった。「民俗学」の存在が自他ともに認められ、彼自身ためらいなく「民俗学」の語を使うようになったのは昭和10年代以降と言っていいが、その昭和10年(1935)、学会が組織され機関紙が出されたときも、それぞれ「民間伝承の会」「民間伝承」を

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(5) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(4) - 石陽消息

    <「民俗学」とは何か> ここで、「民俗学」という言葉が問題になってくる。 日には二つの「ミンゾクガク」が存在している。「民俗学」と「民族学」である。そのほかにも「文化人類学」「社会人類学」という名称もある。漢字二三文字の同音異義語が多いのが近代日語の宿命とはいえ、「機会」や「機械」、「家庭」や「過程」ぐらいは何とか我慢するが(これだってぎりぎりだ)、非常に近い領域を扱う隣接の学問で、対象と手法に違いがあるとはいえ、それも亜種的なものにとどまるのみの両者が、同じ名前では困ってしまう。それに至るまでにはもちろん事情がある。「柳田民俗学」の特徴は、言葉を手がかりに考察を進めていくところにある。少し意味は違うが、ここでわれわれも言葉の問題を考えてみよう。 日の近代は、西洋の学問体系を移植する過程であった。翻訳語を作り出すのが学者の重要な任務のひとつであった。欧米のほうですでに体系化が終わって

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(4) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(3) - 石陽消息

    <明治大正期の柳田と「民俗学」> 柳田個人においてはどうだったのだろうか。 のちに「民俗学」を志した動機について問われたとき、即座に「それは南方の感化です」と答えたという(註9)。柳田が「日人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある」「どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと探し出せそうにも無い」(「ささやかなる昔」)と評する博覧強記の大学者南方熊楠(1867-191941)は、明治33年(1900)、13年にわたる英米滞在を切り上げてロンドンより帰国し、37年(1904)から「東洋学芸雑誌」などに日語で寄稿を始め、「人類学雑誌」にも41年(1908)から論考を発表している。柳田は、坪井に勧められて、自著「石神問答」を南方に贈呈し、それから文通が始まる。フレイザーの「金枝篇」を明治45年(1912)から読みはじめてい

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(3) - 石陽消息
  • 柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(2) - 石陽消息

    <明治大正期に「民俗学」はあったのか> では、明治から大正初期には「民俗学」は存在していなかったのか? いなかったとも言えるし、いたとも言える。 あらかじめ用語の混乱を避けるために、生物としての人間をあつかう分野を自然人類学、人間の文化をあつかう分野を文化人類学としておこう。「民俗学」は、「広辞苑」によれば、「一つの民族の古来の伝承を研究対象とする学問。文献に頼らず、言語や行為によって伝承されているものを蒐集し、研究する。民族学とは縁は近いが別な学問とされている」とある。このくらいが一般的な認識であろう。「自民族の研究」というニュアンスもある。 日の人類学会が創立されたのは明治17年(1884)。開国が1854年であることを考えれば、おそろしく早い。1963年生まれで当時まだ学生の坪井正五郎とその友人たちのクラブのようなもの(「じんるいがくのとも」)だったとはいえ、パリ人類学会設立に25

    柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(2) - 石陽消息