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2008年12月23日のブックマーク (6件)

  • 2008-12-21 - 赤の女王とお茶を - 日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!

    水村さんのはまだ読んでないんですけど、最近他にいろいろ読んだので枕に使わせてもらいますね。 ジャーゴンってものがあります。2ちゃん語やJK語があります。 日には標準語という共通語があるのに、方言がなくならないばかりか、なぜ新たにこんなローカル語が生まれるのでしょうか? 共通語とか標準言語ってのは多様な人たちが多様な状況で使うものです。科学論文なんか非常に顕著ですが、そういう言語はどんどん最大公約数化し、単純化されていきます。微妙なニュアンスなんか使っても伝わらないリスクが高いわけで、明確でシンプルな表現だけが残っていくことになります。 言い方を変えると、英語をはじめ、標準語というものは「形式知」を伝達するための「ツール」となる、ということです。 逆にいうと、「暗黙知」や「ニュアンス」はそぎ落とされていくのです。しかし、いくら標準語が単純化しても現場そのものが単純化するわけではない。 だ

    2008-12-21 - 赤の女王とお茶を - 日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!
  • 祖国とは国語である「完本・文語文」

    国語としての日語を考えるなら、夏彦翁に訊け。 山夏彦にいわせると、明治の日人は文語を捨てたんだそうな。平安時代から千年かけて洗練された日語を手放し、西洋語の翻訳を「日語」としてあらたに発明したのが、いまの国語となっている。 文明開化は東洋を捨てて西洋を学ぼうとして、皮相だけを学んで根に及ばなかったから私たちはその両方を失ったのである。 そして、文語を捨てたことにより、詩は朗誦にたえなくなり、読者を失ったという。じっさいの終焉は御維新ではなく、新聞の社説が文語から口語に変わった大正十年まで続いたんだと(詩が全部口語自由詩になったのもこのころ)。 わたしの場合、さいしょから無い世界で呼吸してきたからピンとこない。だが、少し引いてみるならば、千年の言語を捨ててから百年経ったのが、いま、なんだろうね。生きてきた数十年だけで日語が終わったとか語るのは、わたしにとって、百年早いのかも。

    祖国とは国語である「完本・文語文」
  • 東浩紀 と はてなサヨク を合成 by まぜまぜモンスター

    ↓これを日記に貼ると、画像がブログに表示されるよ♪↓ <a href="http://mazemon.jp/"><img src="http://mazemon.jp/blog_bar_top.jpg" border="0" alt="まぜまぜモンスター" style="margin:0px;padding:0px;border:none;"></a><br /><a href="http://mazemon.jp/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%82%AF/"><img src="http://mazemon.jp/img_blog/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%82%B5%E

  • ララビアータ:回帰する問い - livedoor Blog(ブログ)

    講談社の宣伝用小冊子に、短いエセーを書くように頼まれた。二通りのヴァージョンを書いて送ったら、その一つを選択してきたので、残りの方をここに載せることにした。いはば、感謝祭のときに大統領の恩赦から外れた方の七面鳥である。 ある世代が命がけで提起する問題というものがある。だがそれも、その世代で解決されるとは限らない。フェルマーの謎が解けるには三百年ほどを要したし、平行線公理を証明しようとした何世紀にもわたる数学者の試みは、十九世紀になって非ユークリッド幾何学の発明という予期されなかった決着を見た。幾世代にわたって徹底的に問い直され、問い続けられたあげく、何の決着も見ずに、ただ飽きられ忘却されてしまう問題も少なくない。三位一体の問題とか、原罪の問題などはそれだろう。時代情勢が変化しているので、今となっては何ゆえこれらの問題に命がけで人々が争いあったのか、理解するのは難しい。しかしそれでも、そこに

    crow_henmi
    crow_henmi 2008/12/23
    >「自由は選択の問題でなく、創造の問題だ」「理解には時間が掛かる」
  • ナチス・ドイツの有機農業 - 本と奇妙な煙

    ナチがディープ・エコロジーを先取り ナチの「動物保護法」 有機農法 ヒムラーのBD農法が創出する理想の人間像 微生物の気持ちになって大虐殺 ナチス・ドイツの有機農業―「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」 (KASHIWA学術ライブラリー) 作者:藤原 辰史発売日: 2005/02/01メディア: 単行 ナチがディープ・エコロジーを先取り リュック・フェリという仏哲学者が1992年の著書でナチの「自然保護法」と「ディープ・エコロジー」の類似性を指摘。そこらへんを下敷にしている模様。 「人間中心主義」批判と「動物への権利」の主張。ディープ・エコロジーが目指す理想を、ナチスは、一九三五年の「自然保護法」と一九三三年の「動物保護法」という二つの法律ではっきりと描いていた。つまり、〈第三帝国〉は、「人間中心主義」から「生物圈平等主義」へという未知の領域に踏み込む実験を、国家規模で、しかもディープ

    ナチス・ドイツの有機農業 - 本と奇妙な煙
  • Socius_書評『健康帝国ナチス』

    紹介と書評 ロバート・N・プロクター著/宮崎尊訳『健康帝国ナチス』 初出 『大原社会問題研究所雑誌』第552号(2004年11月)73-74ページ。 ユビキタスな健康志向社会 たとえば「今の健康ブームは過熱しすぎだ」という議論がある。健康ブームといわれて久しいが、それに飽いたころに健康ブーム批判が出てくるのは自然の成り行きである。そして、それもまた小さなブームになると、批判の言説が陳腐化し、いつのまにか健康ブーム自体に取り込まれてしまう。一部の批判によって萎えるような現象でないということだろう。このさい「健康ブーム」というマスコミ用語を避けて「健康志向社会」あるいは「健康意識社会」と呼び変えて、長期的展望の下に議論したほうが適切ではないかと思う。一過性の現象ではないというだ。 それを前提にした上で、ある種の社会や人びとが健康志向を極度に高めるということがあるということを認識したい。そして