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ブックマーク / noon.serio.jp (9)

  • 読まれるという奇蹟 (セックスなんてくそくらえ)

    どんなブログにも、最初の読者というものはいる。 一日数千のアクセスが普通になってしまったブロガーにも、忘れがたい読者というものはいるだろう。私にとっても最初の読者というものがいたし、その人は忘れることのできない記憶としてある。 男が童貞を捨てた相手を忘れられないように--余談だが、女とは処女を捨てた相手をすぐに忘れることができる生き物だ--ブロガーにとって、最初にそのブログが読まれた体験、言葉が届いた体験というものは、忘れがたいものである。 エントリというものは文章がそこに置かれているだけで価値がでるものではない。例をあげれば、たとえばあなたの部屋には、読んでもいないが山となって積まれてはいないか。 そのはあなたが偶然手にとって読み、そこにあなたのために書かれた一文を発見したとき、初めて価値あるものとして光を放つのである。 読むということはそういうことではないか? それは一度限りのかけ

    crowserpent
    crowserpent 2007/06/18
    「私たちは読むということが21世紀においてどのような意味を持つのか、自分たちの手でゼロから考えなければならなくなった。」
  • 忘れ難きなれなれしい人々 (セックスなんてくそくらえ)

    ブログには非常に不思議な人々が住んでいて、それはブログに書かれている個人的な出来事をあたかも自分のことのように受け止めてしまう人々で、彼らはまるで作者が自分の10年来の友人であるかのように振る舞い、ひどいときには同情したり心配してくれたりするのである。書き手から見ると、いや、あなたのことは何も知らないのでそんなものは受け取れないと思うのが普通だろう。 こういった親和性、言い換えればフラットさがネットの良いところとノンキに考える人々が大多数な中こういうことを言わせていただくのは大変恐縮なのだが、別にこれは新しいことでもなんでもなく、テレビで特集されている芸能人に親しみを覚え、赤裸々な性体験を語る作家になれなれしく口をきくワンフとさほど変わらない光景であるとは言える。書き手と読み手の間には無限の欠落があり、越えられない壁がある。 むろんそれはどちらが上といういつまでも繰り返される書き手の優位幻

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    crowserpent 2007/05/27
    「自分たちが幸せであるからという理由で、相手にも同じものを押しつけて無料で売りつけようとする。なんというおめでたい人々だろうか。」
  • 今この愚かな時代にブログで書くということ (セックスなんてくそくらえ)

    書くということはますます困難になってきている。 あと数十年もすれば21世紀初頭の日漫画とアニメとゲームの時代として記憶されることになるのかもしれないが、それはすなわち言葉が徹底的に軽視された時代だったということである。すでにある文芸作品をオマージュという都合のよい言葉で焼き直し劣化コピーし借用した言葉を自分の都合のよいように流用して切り貼りした図々しい「作品」ばかりが流通し、消費され、しかもその速度はとどまるところを知らない。 この時代を覆い尽くす恐るべき消耗品としての作品の持つ空疎さを必死になって肯定的に読み解こうとすれば、それはもはやサブカルチャーの礼讃に走るしかない。たとえばそのような文芸評論家も実在していることを私たちは知っている。インターネットという場は自らの厚化粧を褒めてくれるブサイクな男を喜んで受け入れる娼婦のように、股を開いて文芸による権威付けをその緩い性器の中に導いた

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    crowserpent 2007/05/21
    「言葉とは、何一つ伝えることができないという絶望の中でのみ、光を放つものではなかったのか。」
  • 知性なき「はてな」―本の読めない技術者・伊藤直也 (セックスなんてくそくらえ)

    あなたの経歴を知っているわけではないが、少なくとも現代の先端を走る技術者はほとんど書籍には頼らない。なぜなら書籍がでるころにはすでにその技術はコモディティ化しているからだ。 もはや技術のスピードはがでるようなスピードでは進化していない。もちろん普遍的な技術もあるのでそういったものは書籍に頼ったほうが効率が良いだろう。だが最先端を進むには、普遍的な技術プラス新しい技術を見る目が必要なのだ。 あなたの記事を読んでいると、とてもここ最近のインターネットの事情について詳しいとは思えない。もう少し勉強してから批判をしてみてはいかがだろうか

    crowserpent
    crowserpent 2007/04/21
    この露骨な教養主義がセックスブロガーの芸風ですよ、皆さん。
  • もっとも空疎なネットの代弁者、平野啓一郎―『ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)』書評 (セックスなんてくそくらえ)

    このとてつもなく空疎なについて、何から語り始めるべきか。 僕がこのの存在を知ったのは、(株)はてなの取締役を勤める梅田望夫が、ブログにおける特権階級でありエスタブリッシュメントでありソープランドのお得意会員がごときアルファブロガーおよびその他有名ブロガーたちに、献という形式でをばら撒いたことがきっかけである。正式な発売日前にこのを無料で献されたブロガーたちが嬉々としてこの「ウェブ人間論」という駄作の批評ならぬ感想文をインターネットにアップロードしこれを絶賛している様子を見たとき、僕がの内容を知る前にまず不愉快に思ったのは、ブロゴスフィアが梅田というIT業者の宣伝道具、広報道具と堕している姿であり、ある程度は無償でエントリを書くことに意義を見出すブロガーたち、たとえば小飼弾やfinalventなどといった者たちすらも、かくも簡単に業者のマーケット・ツールとして利用されている様は

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    crowserpent 2006/12/19
    正午氏は「作家」という人種を過大評価してる気が。/実際読んでみると、正午氏がなぜ「作家性」に拘っているかは理解できた。
  • モテモテ・カリスマ・ブロガー (セックスなんてくそくらえ)

    今日は僕がどれほど読者に愛されているか自慢したいと思う。何も言わずに下のメールを読んでほしい。 noon75さん、初めまして。aki(fivesister)と申します。先日書かれた「「女性ブロガーから告白されました」の狂気」という記事内で取り上げられた女性読者の一人です。 コメント・トラックバックを連投するなどのストーカー行為を繰り返して、ご迷惑をおかけしてしまったことを、深くお詫び申し上げます。つい最近ですが、こちらのメールアドレスを知りました。メールで私が思ったことをきちんと整理してお伝えすればよかったと、後悔しています。私は深刻な妄想癖があるので、記事内で私のコメントが衆人環視のもとで晒されなければ、自分で自分を止めることが出来なかったと思います。感謝しております。 以前あなたの文章を「美しい文章」だと書きました。「美しい文章」とは文章の構成が精密過ぎて日語らしい文章のゆらぎ、隙や

    crowserpent
    crowserpent 2006/12/04
    正午氏へのファンメール。正午氏の文学野郎らしい神経質さが、メールを通して垣間見える。
  • やらせてくれる女には飯を奢るのは当然 (セックスなんてくそくらえ)

    男はなぜ女に飯を奢るか。なぜこんな簡単な質問に悩む多くの人間がいるのだろうか。女は股を開き、男はそれにカネを払う。そこに何も不健全なことはなく、まったくもって当然なことである。 先日たまたま銀座の歌舞伎座で「出刃打お玉」を見る機会があった。売春婦に助けられてあだ討ちを成し遂げる侍の話である。僕が驚いたのは、女を買うということが至極当然のこととして表現の中に取り入れられていたことである。買春は別に騒ぐようなことでもなんでもないはずなのに、それについて語ることがあたかもスキャンダラスな何かであるかのように語られる現在日の状況というのは非常に不可思議マカ不思議であり、少なくともかつての日においては、現在のように買春行為を自分探しツールとして過剰に祭り上げたり、または汚れたものとして過剰に無視したりといった、まるで女にモテたことがない男たちが考えたような女に対する幻想に支配された陰気で柔弱でヘ

  • ブログを書いてはいけない人々 (セックスなんてくそくらえ)

    謙虚な人々。 もっともブログを書いてはいけない人々。ブログに必要なことはまず目立つことであり、人目を引く過剰な罵倒、きらびやかなレトリック、架空の勝ち負けにこだわって勝ちを演出するポーズ、こういった厚顔無恥な戦略を駆使し、あらゆる場面で自分のブログとその名前の差別化を計ることが大事なのであって、ブログにおいて知らないということを知らないという謙虚さは不要であり、むしろほのめかして知っているフリをするべきなのであり、なぜなら多くの読者はその見せかけの知識の高さが物なのかどうか理解する術を持たないからである。 誠実な人々。 ブログを書くのに向いていない人々。ブログに必要なことは堂々と批判を無視することであり、批判に対してはコメントの削除・修正などを繰りかえし、ハンドルネームを次々に変更し、ブログのリネーム及び移転などを意図的に頻繁に行うことで、自らに都合のいいことだけが周囲に存在しているよう

  • 真剣に考えるということ (セックスなんてくそくらえ)

    なんに関しての話でもよいが、ある物事に関して考える際、たとえばセックスでは癒せない孤独、凡庸で退屈な日常のかけがえのなさ、体を売る女たちの不可視の商品価値などに関して、ブロガーが「真剣に」考えなければいけないという倫理が、あたかも真剣に考えることそのものよりも重要視されるきらいがあるように思うのだが、一見どこにもおかしなところのないようなこの倫理的で道徳的な基準の中には、誠実で知的であるために必要なある視点が欠けているように思っていて、それはすなわち「真剣さ」とはどのようなものであるかということについての考察が、そもそも抜けているからではないか考えるのである。確かに、誠実な思索のために男はたとえば、射精したあと縮んだ性器が常に滑稽に見える件について真剣に考えなければいけないが、問題はここで言われている「真剣さ」がどようなものであるべきかということなのであって、たとえばまじめに、力の限り、こ

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