2013年10月26日付 中外日報(社説) 4世紀東晋の孫綽は山濤を「吏にして吏に非ず、隠にして隠に非ざる」理解し難い人物であると批判した。山濤は魏晋の時代の自由人のグループである「竹林の七賢」の一人。若いうちこそ「隠身自晦」し、すなわち隠者のように韜晦につとめていたものの、40歳にして仕官するや、それ以後は西晋王朝の顕貴の位を歴任したのであって、そのような生き方を、孫綽は「吏にして吏に非ず、隠にして隠に非ず」、官僚でもなく隠者でもないと批判したのであった。 ところが、発想をまったく転換して、「吏にして吏に非ず、隠にして隠に非ざる」存在を、「吏」にしてかつ「隠」、「隠」にしてかつ「吏」なる「吏隠」と呼んで理想化する考えも存したのであった。その顕著な例を唐の白居易の詩文に見いだすことができる。 例えば皇甫鏞なる人物の墓誌に、白居易は「初め元和中(806~820)、公は始めて郎官に因って東洛に
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