戦国武将の織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、部下に実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。 【写真】1行目に「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」。明智軍が本能寺を急襲し、信長が武器を取って戦う様子も記されている 古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた