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2011年10月13日のブックマーク (18件)

  • 弁護士会の読書:「諸君!」「正論」の研究

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    dan_oni6 2011/10/13
    オヴィディウス 変身物語
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    dan_oni6 2011/10/13
    周縁
  • 新世界読書放浪 |中華人民共和国誕生の社会史

    「銃後の中国社会」の続編とも言えるもの。公式的な抗日戦争勝利、共産党による解放という美酒の記憶の実際はどうだったのかということを四川省をケースに地元紙の報道などを元に実態を探っていく。タイトルの意味は中華人民共和国誕生により情報が統制されるまでの間に垣間見られた中国社会の現実といった意味か。一番人口が多くて、貧しいという四川省の現実は今も昔も変わらないのだが、それゆえに兵士に多く徴発され、終戦後に戦地に置き去りなんてこともあったらしい。川島芳子ではないが死刑もカネで身代わりが立てられた時代であるから富裕層は徴兵も身代わりを立てることが普通であった様で、そうした富裕層への民衆の恨みが共産党による「解放」で爆発する。現在の状況がいつか来た道であることが窺い知れるのだが、かつて身の安全の為に進んで共産党に奉仕したという「開明地主」の姿も、現在の富裕層の姿に重なる。問題は当時の様に現在の共産党が人

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    dan_oni6 2011/10/13
  • 新世界読書放浪 |インドネシアと日本

    デヴィ夫人の回想録はあんま読みたいとは思わんが、このデヴィ夫人をスカルノにあてがった男として知られる人の回想録は面白かった。回想録といっても著者が倉沢愛子になっているのは倉沢が長年インタビューをテープに録っていたからの様で、近年のオラヒスブームで陽の目をみて、院生にテープ起こしをさせたとのこと。元々、インタビューを録る録るきっかけとなったのも桐島洋子にいとこがインドネシアにいると聞いたからだそうで、このインドネシア在住半世紀以上政商も元は三菱財閥に通じる富豪の生まれ。インドネシア賠償ビジネスで暗躍した東日貿易も木下商店も今は無いが、東日を辞めた後、独立して様々なビジネスに手を出す話は興味深い。スカルノ失脚後もスハルトと良好な関係を築けたのも、スハルトが打倒したのはあくまで共産党勢力であり、スカルノは幽閉される完全否定された訳ではないからであろう。デヴィ夫人が住んでいた屋敷にも後に補償金が支

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    dan_oni6 2011/10/13
    スカルノ
  • 「黒いスイス」

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    dan_oni6 2011/10/13
  • 「部分と全体 」

  • 「生命保険のカラクリ」

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    dan_oni6 2011/10/13
  • 「数量化革命」はスゴ本

    なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。 このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する) 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取

    「数量化革命」はスゴ本
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    dan_oni6 2011/10/13
  • 田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』、楊海英『続 墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』 - ものろぎや・そりてえる

    田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』、楊海英『続 墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』 世界地図上で国境線として引かれた枠組みと、実際の民族分布とは必ずしも一致するわけではない。モンゴル人の国家としてはモンゴル国(かつてのモンゴル人民共和国)が目に入るが、モンゴル人の居住地域は中華人民共和国の内蒙古自治区やロシア連邦のブリヤート共和国にもまたがっている。現行の世界地図を見慣れた目には自明なものと映ってしまう。しかし、このようにモンゴル人が分断されている背景には、自前の一つの国家を持ちたいという悲願を抱きつつも大国の思惑に翻弄されてきた現代史の哀しい経緯があり、そこにはかつての「満洲国」を通して日もまた関わりを持っていた。 1939年、「満洲国」とモンゴル人民共和国との国境線をめぐって日軍とソ連軍が直接戦火を交えた。田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満

    田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』、楊海英『続 墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』 - ものろぎや・そりてえる
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    dan_oni6 2011/10/13
  • 野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』 - ものろぎや・そりてえる

    野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』(中公新書、2011年) ・エリート官僚の不祥事、「脱官僚」政治政治主導のスローガン…「官僚」への世評は芳しくない。しかし、現代社会の複雑な統治機構において「官僚」が不可欠なのも事実である。官僚制に対する反感は、直感的には分からないでもないにせよ、それはあくまでも心情レベルのものにとどまっている限り、実際の政治課題遂行に支障を来たす困難に直面する。こうした官僚制をめぐる議論はどのようにして仕切り直しが可能であろうか。 ・書はウェーバーをはじめミヘルス、トクヴィル、カフカ、シュミット、アレント、ハーバーマスなどの論者が「官僚制」についてどのように議論を展開してきたのかを確認する構成を取っているため、一見、迂遠に感じられるかもしれない。しかし、現在の政治的論点を相対化しながら捉え返す視座を提示するためにこそ政治思想史の知見を活用して

    野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』 - ものろぎや・そりてえる
  • アマルティア・セン『アイデンティティと暴力──運命は幻想である』 - ものろぎや・そりてえる

    アマルティア・セン(大門毅監訳、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力──運命は幻想である』(勁草書房、2011年) ・インド独立直前の時期、ヒンドゥーとムスリムとの暴力的な対立を目の当たりにしたセン自身の体験→アイデンティティ意識は隣人との連帯感を抱く上でプラスの役割を果すが、他方で他者への排除、時には同胞と敵とを峻別して後者への暴力を促す危険な力をも持つ。豊かさやぬくもりの源泉であると同時に、暴力や恐怖の源泉でもある両義性。一人一人の個人はそれぞれに多元的な側面を持っている。一元的な存在へと単純化してしまうのではなく、アイデンティティ意識の複数性を自覚した上で、その時々の状況における理性的選択の大切さを説くのが書のメッセージ。 ・コミュニタリアニズムではアイデンティティを「発見」されるものとする→しかし、一人一人の個人には複数のアイデンティティがあり得て、単一のアイデンティティに狭め

    アマルティア・セン『アイデンティティと暴力──運命は幻想である』 - ものろぎや・そりてえる
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    dan_oni6 2011/10/13
  • J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(補遺)ブルア - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    前の記事でブルアについて書いていて、全然見当違いのことを書いているのではないかと気持ちが悪かった。ブラウンののあと、読みかけになっていたフラーの「我らの時代のための哲学史」を再開したのだが、索引をみるとブルアについて多くの言及がされている。それでそこを拾い読みすることより、少しはブルアというひとについてイメージすることができるようになれたように思う。それで、その点のみを補足しておく。 一言でいって、ブルアは「哲学的」概念を嫌ったのだということらしい。哲学的概念は科学的探究の障害物であり、科学を不必要に政治化するのだ、と。知識の性に科学的にアプローチするのでなく、それ以外の方法でアプローチするのであれば、それは私たちのイデオロギー的関心の投影に過ぎないものとなり、その結果、そこで構築された知識論はそれに対応するイデオロギーのプロパガンダとなり、そのイデオロギーの興亡に対応して起こりまた消

    J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(補遺)ブルア - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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    dan_oni6 2011/10/13
  • J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(8) - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    ここではブルアというひとの科学知識の社会学についてのブラウンの議論をみていくのだが、これがいたってわかりにくいものであった。 ソーカルは「知の欺瞞」の「日語版への序文」で、「知の欺瞞」には二つの標的があるとしている。一つがポストモダンの著名な知識人たちがおこなっている科学的な概念や術語の来の意味とは異なる用法での濫用であり、もう一つが認識的相対主義である。相対主義からの見方によれば、現代科学は「神話」「物語」あるいは「社会的構築物」等々以外の何ものでもない、ということになる。あることを科学の見方で説明するのは、あまたある事物についての説明の仕方の一つであって、その説明が他の説明よりも特に優れているわけではない、という主張である。科学的な見方も特権的なものではなく、ある時代やある地域でたまたま受け入れられている説明のやりかたに過ぎない。 ポストモダン思想は強く相対主義に傾いているから、二

    J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(8) - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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    dan_oni6 2011/10/13
  • J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(7) - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    第6章「社会構成主義の自然主義派」にフォアマンというひとの「ワイマール文化、因果関係、量子論 1918−1927 ドイツの物理学者および数学者の敵対的な知的環境への適応」という論文が紹介されている。1971年に発表されたものだそうである。その論旨は「第一次大戦の敗戦後、ドイツの科学者たちは、それまでもっていた威信を大幅に失った。また時代はシュペングラーの「西洋の没落」がもてはやされていた時代でもあった。時代精神は神秘主義的、反機械論的であった。それに対応して、ワイマール体制下の科学者たちは、ドイツ大衆のそのような風潮に訴えるような、非因果的で非決定論的な量子力学をつくりだすことにより、高い社会的地位をふたたび手にいれようとしたのだ」というものであるのだそうである。 あきれてものがいえないようなとんでもない説であるが、ブラウンのによれば、この論文は社会学関係で圧倒的な引用回数を誇る論文なの

    J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(7) - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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    dan_oni6 2011/10/13
  • J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(6) - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    第4章「社会構成主義のニヒリズム派とポストモダン」は、ポストモダンとファイヤアーベントを論じているのだが、著者のポストモダンへの姿勢が定まらないので、論旨がよくわからなくなっている。ブラウンはポストモダンが左派の信用を失墜させるとして基的には批判的なのだが、それが持つ批判の姿勢を肯定するために全否定ができない。 ポストモダン主義は、社会構成主義のなかでも「ニヒリズム寄りの一翼をなす」というのだが、わたくしはポストモダン主義の一翼として社会構成主義がいるような気がする。 ポストモダン主義は近代主義の中核と考えられている啓蒙主義に反対する立場なのであるという。これもわからない。ポストモダン主義は鬼子ではあっても啓蒙主義の末裔なのではないだろうか? 啓蒙主義の目標は、迷信や権威主義を排し、そのかわりに批判的理性を用いることで、神の啓示や政権のかわりに、世俗の科学を採用し、伝統のかわりに進歩を重

    J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(6) - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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    dan_oni6 2011/10/13
  • J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(5)幕間:フラー「我らの時代のための哲学史」など - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    ブラウンののクーンにかんするところを読んでいて、思い出して棚の隅から引っ張り出してきたフラーの「我らの時代のための哲学史」をぱらぱらと見ていたら面白くてついつい第2章まで(約200ページくらい)読んでしまった。それでそれに関連して、ポパーの「果てしなき探求」、ラカトシュらの編の「批判と知識の成長」、ファインマンの「光と物質のふしぎな理論」、はてはヤンマーの「量子力学の哲学」などまでもち出してきて、ぱらぱら再読してみることになった。 それで感じたのが、ブラウンのよりもフラーのの方がずっと柄が大きいというか射程が長いということであり、クーンよりもポパーのほうがやはりずっと大物だというようなことである。どちらのいっていることが正しいかというのではなく、それぞれの持っている問題意識の射程の違いである。クーン流のいいかたでいうと、ブラウンのは「通常科学」の範囲内で書かれている。ブラウンがい

    J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(5)幕間:フラー「我らの時代のための哲学史」など - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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    dan_oni6 2011/10/13