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ブックマーク / technique.hateblo.jp (34)

  • Freezing Point シンポジウム

    シンポジウム 「外に出たくなるってどんなとき? 〜欲望と希望のあいだ〜」*1 【出演】 斎藤環さん (精神科医 爽風会佐々木病院) 【臨床】 上山和樹さん (『「ひきこもり」だった僕から』著者) 【経験者】 岡圭太さん (よこはま若者サポートステーション) 【経験者】 滝田衛さん (NPO法人アンガージュマンよこすか) 【支援】 日時: 2007年3月17日(土) 13:00〜16:00 会場: 横浜市都筑区総合庁舎6階 大会議室 メモと記憶を頼りに、ごく簡単に記してみます。 (もちろん、公的な記録などではありません) *1:関係者の皆様、ありがとうございました。 (とりわけ、企画立案をされたという岡圭太さん) 斎藤環: 性的な他者に承認されることは、劇的な効果を持つ。 医者などにできることをはるかに超えている。 性愛は重要なテーマだと思うし、これからも考えたいが、実際にプライベートな

    Freezing Point シンポジウム
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/04/02
    『あらゆる関係性はSMだ』『人間関係はコントロールできない。 いい加減にやるしかない。』『欲望や自発性は無責任』『成熟とは、自己愛が安定すること。 つまり、不完全な自分を肯定できること。』
  • Freezing Point -  斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 1

    斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 日時: 3月6日(火) 14:00−16:00 場所: ユメンヌホール(大阪大学人間科学部東館 2階 207講義室) 概要: 脳科学ブームの昨今、脳で人間の心や社会が説明できるかのような言説がまかり通っている。 しかし実際には、現時点での脳科学は、人間の心や行動を整合的に説明できる学問たりえてはいない。 精神医学者アンリ・エイは、脳の障害と精神症状との間にギャップがあることをふまえて「器質−臨床的隔たり」と呼んだ。 この指摘はいまこそ有用である。 「階層性−非階層性」をキーワードとして、脳科学による心の解明において、設定されるべき限界について述べる。 聴講してきました。 同講演に参加されていた、谷川茂氏(双風社): 「斎藤環さんのセミナーにいってきました」 以下、音声ファイルや配布されたレジュメなどを元に、大まかな記録をアップします。

    Freezing Point -  斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 1
  • Freezing Point - カテゴリー差別と嫌悪感

    非モテ系の人間が差別されても、それは「当然だ」と流されてしまい、ほかの差別のように取り合ってはもらえない。 ▼見下されたために過剰な非難を浴び、しかしそれは分かりやすい「差別」とは見えないため、集団で嘲笑されるままになる。 差別は、分かりやすい差別枠があるから差別なのではない。 人間をあるカテゴリーに囲い込み、「見るからに○○だな」「○○は傲慢だから」――勝手なカテゴリー属性で逆に規定してみせたとき、それはすでに差別なのだ。 【逆に言えば、いくら嫌ってもそれは単なる嫌悪感であり得る。】 ある属性をもった人間を「支援の対象」として囲い込むことは、差別的な見下しであり得る。 「○○のくせに」。 私の存在が、人格を持った一個人ではなく、「○○」という劣位のカテゴリーと同一視される。 支援のそぶりを見せていた人間が、物の差別主義者に豹変する。 ひどい猥談をしているモテ男。 その横で、思い詰めたセ

    Freezing Point - カテゴリー差別と嫌悪感
  • 2007-02-03

    どんな人間関係を維持するのであれ、その場に特有の「力関係」に苦しむことになる。 この問題から逃げられる人間集団はない。 ひきこもり系の人間は、どこにいても、自分を政治的に成り立たせることに失敗する(家の中であっても)。 ひきこもりの社会復帰支援とは、政治のやれない人間を政治の中に放り込むことに相当する。 サバイバルのためには、自分を組織する指針が要る。 それは、家を出るとか出ないとか以前に、「頭が真っ白になってわけがわからなくなる」という苦痛のために。 経済的自立は、政治的自立の一部分だと思う。 生放送分+終了後の「外伝」が、podcasting で聴けます。 「Part5(外伝2)」*1冒頭で、私の投稿メールを読んでくださっています*2。 私にとっては長期的な論点なので、以下にその文面をアップします。 「働くうえで、いま最も必要とされていること」*3ですが、私は、 精神論とは別の形での、

    2007-02-03
  • 2005-11-27

    ひきこもりをテーマとする当ブログで、大野氏のこの文章を紹介するのは冒涜だろうか。 「まったく働けない人間」と、「働きすぎて死んでしまう人」。 ▼私自身を含め、大野氏のような経歴を持つ「ひきこもり当事者」の話はよく聞く*1。 閉じこもっている人の多くは、「自分のことは自分で決めなければならない」という強迫観念に支配されており、それゆえに逆に身動きできなくなっている*2。 どうしたいかが自分でもよく分かっていないくせに――というよりもだからこそ――、他者と関わることで自分が過剰に他者に支配されてしまうことを恐れる。 「他者の色に染まりすぎること」を怖がる。 「生き甲斐」や「仕事の指針」は、「自発性をもって自分で決めねばならない」と頑なに思い込んでいる――恐怖心ゆえに。 ▼他者との関係に巻き込まれることは、そのまま「周囲の人間関係に支配されること」を意味する。 《交渉》ができないから。 自分はど

    2005-11-27
  • 「症候を自分で決めることはできない」 - Freezing Point

    「消費としての労働」という仲俣暁生氏のエントリーが、話題になっている。 ラジオの番組のなかで田さんが、柳瀬さんの「なんでもいいからとにかく働け、働いてみないと、働くことがどういうことかなんてわからない」という発言に対して、「回転寿司をべて一度中毒になったことのある人間は、寿司の皿を選ぶ以前に、回転寿司に対して恐怖を感じる」というようなことを言っていた。 でも、これは問題のすり替えである。 職業選択の問題が、なんの疑問もなく消費の問題に喩えられてしまうことにとても違和感を感じながら、私は彼女の話を聴いていた。 《中毒》は、就労を「回転寿司」の比喩*1で語っていた玄田有史氏に、あるイベント内で反論したもの。 この比喩の核心は、「消費」ではなく「人の意思的努力によってはどうしようもない」にある。 ひきこもりの深刻な事例では、「このままでは死ぬよ」と言われても社会参加はできない。 「働か

    「症候を自分で決めることはできない」 - Freezing Point
  • Freezing Point 羞恥心をあおること

    「大学における準ひきこもりという存在」を読んだ人の多くが、「これは自分のことじゃないか」と感じている。 【大量のTB先】、【はてブ】 元になった樋口康彦氏*1の論文は、「非社会的」とされる傾向を「問題」として描き出すことによって、「思い当たるフシのある人たち」の一部に、強烈な羞恥心を引き起こしている。 しかしここで反応しておられる人たちは、曲がりなりに社会生活や対人関係を続けているのだと思う(「ひきこもり」ではなく、「準ひきこもり」だというのだから)。 完全に何年間も引きこもった人が、「立派な社会人」から同じように問題視され、問い詰められたら、どれほど立つ瀬がないか、どれほど恥ずかしいか――樋口論文の読後感を手がかりに、想像してもらうことはできないだろうか。 ひきこもりは、異常に恥ずかしい。 その羞恥を増幅することで人の社会意識を高めようとする試みは、傷口に焼け火箸を突っ込んで治そうとす

    Freezing Point 羞恥心をあおること
  • Freezing Point - 「こんな話が美談みたいに語られるのは、なんかおかしい。」(id:using_pleasureさん) 【はてブ】

    元になった樋口康彦氏*1の論文は、前提としているデータや価値観に疑問がある*2が、問題啓発としては有意義だと思う。 非社会的状態像については、まず最初の段階で次の3系統を診断し分けなければならない。 (1)精神疾患 (うつ病・統合失調症など) (2)発達障害 (高機能自閉症・アスペルガー症候群など) (3)社会的ひきこもり*3 それぞれで課題や社会的処遇が異なる。 大学に入学して学科をこなしていても、(1)や(2)に苦しんでいるケースは多い*4。 樋口氏の議論は(3)についてだが、気になったのは次の諸点。 ■「何をもって社会性となすか」が疑われていない。 ■「いかに社会復帰してもらうか」は現実的な課題だが、「とにかく社会復帰させよう」という目論み自身が、目的にとって自殺的に機能する。 ■「適応強迫による内面疎外」の問題は、単なる外圧では対応できない。 以下、詳しく見てみる。 若者の「非社会

    Freezing Point - 「こんな話が美談みたいに語られるのは、なんかおかしい。」(id:using_pleasureさん) 【はてブ】
  • 2005-07-27

    社会的弱者の支援者は、「より弱い当事者」に寄り添おうとする。結果、少しでも発言を試みられる状態になった当事者に対しては、「あいつが発言するから、より弱い当事者が抑圧される」という抗議が発生する(その抗議は、実際に「より弱い」当事者人やご家族から出ている)。しかし、発言を試み始めた当事者(経験者)は、社会的には最弱のまま。つまりこの者は、業界の内部からは「最強だ」と言われ、しかし外部社会においては、最弱の存在として相手にされない。発言を試みたことによって、業界の内部からも外部からも締め出されてしまう。 私は、ひきこもりの業界内部から、「お前一人が発言するから、お前が代表者であるかのように見られてしまう。迷惑だ」と言われ続けている(ここ最近、信頼していた関係者が次々とこうした表明を始めている)。しかし、例えば女性という自分の属性に基づいて「女性学」という当事者発言を試みてきた上野千鶴子氏は、

    2005-07-27
  • 2006-11-02

    先日の対談イベントより。 児童労働がひたすら美化される宮崎駿アニメや、『美しい国へ (文春新書)』(安倍晋三)を例示しながら、「働くことは美しい」という思想や言説が問題化された。 斎藤環氏自身は、個人的な美的感覚としては「働くことは良い」と感じるが、それは倫理的判断とは別に考えるべきだという。 それを受けて考えれば、 フィクションやドキュメンタリーにおいて、ひきこもり当事者(を意味する人物像)が、「気色の悪い男」として描かれたり、逆に過剰に美化されるとしたら、それは「美的なものが倫理を犠牲にしている」と言える。 今後の議論にどうしても必要なモチーフだと思うので、引用します。 id:kwktさんによるレポート「モバイル社会における技術と人間」の、斎藤環氏の発言より(強調は引用者)。 「関係性」が前景化し問題化される。 「関係性」と「コミュニケーション」は違う。 両者の差異がユビキタス化によっ

    2006-11-02
  • Freezing Point - 必要な概念について(引用のおことわり)

    このブログでは、「ひきこもり」についてずっと考えてきたのですが、 ここ数ヶ月で、「終わりなき再帰性から、事後的な分析へ」という枠組みが形になってきました。 そこで、社会学・精神分析・現代思想などから、どうしても参照しておきたい諸概念について、いくつか解説を引用してみます。 【これを記している今日は11月12日ですが、引用・転載はこのブログの11月6日以降に。 なるだけ皆さんと議論を共有したいので、今後も適宜、同じような作業をしたいと思います。】 解説は欠けたり不足したりしていますが、これから少しずつ読書や考察を進めてみます。 「制度」(参照1)(参照2)(参照3) institution (仏、英) (ガタリ、ジャン・ウリ、メルロ=ポンティ) 「制度における、制度による、制度に対する方法論」 institution (仏) (フェリックス・ガタリ、ジャン・ウリ、フェルナン・ウリ) 「抽象機

    Freezing Point - 必要な概念について(引用のおことわり)
  • Freezing Point - 「処理の完遂」と、「終わりなき」の構造

    ひきこもりの自意識は、傷口そのもののように膿み続ける。 強迫的な再帰性は際限なく意識の秘肉を痛めつけ、痛みを感じることが現実を感じることに等しい。 傷の再生産以外に、現実を感じられる場所がない。 外界の狂乱に巻き込まれれば、再帰的な確認のタスクが増えすぎてわけがわからなくなる。 意識が、引き裂かれた虚無感でしかなくなる。 社会的意識の再起動は、自動的に再帰性の再起動になり、傷の再生産にしかならない。 「社会復帰せよ」「お前はクズだ」――こうした声は、人の中にすでにある再帰性の声をなぞっているにすぎない。 「自らに対して、処理を完遂せよ」 どんなに熟練しても、外界の動きはわれわれの処理スペックを超えている。 規範の強迫化は、足かせにしかならない。 関係に巻き込まれれば、共同体的自意識がますます自分を縛りつけ、ますます身動きが取れない。 いずれにせよ、処理は追いつかない。 処理が追いつかなけ

    Freezing Point - 「処理の完遂」と、「終わりなき」の構造
  • 2005-11-21

    『援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002 (朝日文庫)』p.367-370 ここで重要なのは、確かにチョムスキーは驚くべき数理的業績をあげましたが、そのベースにあるのは一貫して自由を求める実存的希求だった、という点です。そしてその実存的希求が、彼自身のとった政治的行動と極めて緊密に結びついていました。 私はこういう人が大好きです。ノーム・チョムスキーに私はメチャクチャハマりました。変形生成文法もメチャクチャ勉強しまくりました。それは数理的な関心からと言うのでなく、繰り返しますが、実存的な関心からです。 私が小室直樹や廣松渉に惹かれたのも全く同じ理由です。小室にも廣松にも信じられないほどの教養があります。そしてその信じられないほどの知識量が、彼らの頭の中では主観的に構造化されています。 【中略】 彼らが過剰な教養を持っているのは実存的な核があるからだと私には直感的に分か

    2005-11-21
  • 2004-04-20

    ヒキコモリ当事者を、「自己責任」や「ヘタレ」の論旨で罵倒しても始まらない。あるいは逆に、当事者が「自分で望んでこうなったんではないんです」と主張しても「真性/詐称」の区別がつかないし*1、「私でもやっていけそうな労働環境を」と懇願しても、選択肢は資主義しかない。 どう転んでも生き残る道がないような気がしてくる。 苦しんでいる人間の存在を「社会の症候」と見るのは陳腐だが、有効性も残っていると思う。ただし、「社会が悪い」と言いつのっても何も変わらない。「ヒキコモリは資主義の犠牲者だ」とばかり言うのも、「イデオロギー的主張のネタ」にされているようでいただけない。 目の前にある(あるいは自分が生きている)苦痛を、「何を温存し、何を変えるのか」「何が必要なのか」を考えるきっかけにすること。つまりまさに、苦痛を「問い」として受け止めること。 「今ある選択肢」の中から、自分が選べそうなもの・耐えられ

    2004-04-20