ブックマーク / finalvent.hatenadiary.org (4)

  • ヒュームとか - finalventの日記

    私は自分の性向として、あまり懐疑論の立場を取らない。懐疑論的方法論も採らない。これを言うと失笑を買うかもしれないが(いやそんな関心はもたれていないだろうが)冷笑主義も取らない。 そのせいもあって、あまりヒュームに関心を持ったことはないし、どちらかというと彼の経験論的な問題は疑似問題のような気でいた。 彼も歴史に還元するとけっこう面白いものだな。特に、スミスと交流が深かったのか。 デイヴィッド・ヒューム(1711- 1776) アダム・スミス(1723 - 1790) 彼らはスコッテッシュでもあったわけだ。 バークリー(1685 - 1753)はアイルランドか。 視覚新論: George Berkeley, ジョージ・バークリ, 下條 信輔, 植村 恒一郎, 一ノ瀬 正樹 おや、下條さんがここにも。

    deepbluedragon
    deepbluedragon 2009/07/12
    ドゥルーズはかなりのヒューム好きだが、それは懐疑論者ヒュームではなく、トロープ(流れ去る感覚)論者ヒュームである。しかし、ヒュームのこの二面性はドゥルーズの二面性でもある
  • ある種の人間は子どもの頃からあるテーマを持っていて - finalventの日記

    たまにその子が頭がよいと、学者みたいにもなってしまうのだが、学者になれるのは、その学の方法論において、テーマをうまく整合させた結果でもある。 残念ながら、そのテーマがうまくそういう型嵌めにいかないこともあり、珍妙な結果になるにはなる。 そういえば。 その後もこれやこれはぼちぼちと読んでいる。 ⇒「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス(三浦俊彦)」読んだよ - finalventの日記 ⇒年末読んでいた - finalventの日記 三浦は人は洒落気はあってもトンデモのつもりはないだろう。ジェインズのほうは、学会的にはもう埋葬され、トンデモになっている。 二著を並べたのはというか、この二著にひっかかっているのは、人の個の意識というのは、ある種、濃度のようなものなんだろうというあたりだ。 先日、アダムスミスの評伝を読んだのだが、アーレントでもそうなのだが、Common Senseとい

    ある種の人間は子どもの頃からあるテーマを持っていて - finalventの日記
    deepbluedragon
    deepbluedragon 2009/07/11
    同じCommon Senseでも常識と共通感覚は別。共通感覚は異種モジュール間の統合問題と同じで計算困難もしくは不可。異種モジュールの異種とは視覚や言語など。共通感覚とは身体性の問題である
  • 偽科学発見テスト - finalventの日記(Sundaland 2008/12/05 07:49)

    以下のエントリは、当初「偽科学発見テスト」と題されていて、科学的な言説と非科学的な言説をどう考えるかという、一つのテストケースとして考えていました。 想定していなかったいくつかの契機があり、また私の考えも変わったので、その点については、書き改める予定です。 変化の経緯⇒Eijkman shared the 1929 Nobel Prize... - finalventの日記 以下は、それまでの過去の経緯として、ご関心のあるかたはその心積もりで参照してください。 ウィキペディアの以下の項目に含まれている引用部分は、極めて偽科学的説明である可能性が高い。科学的説明の逸脱とその理由を説明しなさい。 ⇒脚気 - Wikipedia 江戸時代の江戸では、富裕層のあいだで玄米に替えて精米された白米をべる習慣が普及し、将軍をはじめ富商など裕福な階層に患者が多かった。江戸時代末期には一般庶民も発症し、江

    偽科学発見テスト - finalventの日記(Sundaland 2008/12/05 07:49)
    deepbluedragon
    deepbluedragon 2008/11/19
    脚気の引用部分→前半は文章自体の質が悪い(私からすると悪文)。添削だけで疲れる。この文章を選んだこと自体に疑問を感じる。これに比べれば後半は文章がマシ。こっちなら実験計画などの問題が問えそうだ
  • また少し現成公案メモ - finalventの日記

    こんなことに関心を持つ人がいるかわからないし、仏教や道元に関心を持つ人でも、私が何を考えているのかバカみたいに見える人もいるだろうけど、そこはご愛敬で、メモ、と。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。 「諸法の仏法なる時節」という限定節が何を意味しているかが、まず難しい、のだが、これは単に「時節」であり、「時」ということだと思う。ここで現代人が道元を誤解するのは、「時」に対する基的な認識を異にしている部分が大きいだろう。 道元にあっては、時とは有であり、彼は有時といっている。有るということは時である。ここで、おそらく道元がその前半生で悩んでいた問題は、たぶん、ゼノンパラドックスと同じだろうと私は思う。飛んでいる矢は止まっているということだ。もちろん、道元はゼノンパラドックスは知らないし、その思考の枠組みで考えているわけではない。 ただ、たぶん、道

    deepbluedragon
    deepbluedragon 2008/11/17
    これ自体は興味深い話として。大乗仏教系の話って、生成する世界は言葉で尽くすことはできない→すべては縁起である→世界はあるがままに過ぎない…となりがち。でも宗教と哲学は違う。苦の位置づけが宗教の任務
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