8月17日の早朝。 未明までリオ五輪でのニッポン卓球女子の奮戦ぶりを伝えるテレビ中継に釘付けとなっていたためほとんど睡眠時間がとれないまま、私は茨城県つくば市の研究学園都市へと向かっていた。 戦後の日本は、優れた官僚システムによって創られたと言われるが、下河辺さんはその官僚の象徴であり、今後100年、これほど卓越した官僚は生まれないのではと思わせたのが下河辺さんだった。 もっとも私が下河辺さんのことを記事にしたのは、阪神・淡路大震災の復旧・復興についての2つの対談のみだった。 1995年1月17日の未明、兵庫県南部地震が発生した。 早朝のニュースで神戸市が壊滅状態に陥ったことを知り、血の気が引いた。 というのも、私は1991年4月5日号から「週刊ポスト」(小学館)で「メタルカラーの時代」という連載を開始(当初は異なる連載標題だったが)、日本のものつくりや土木・建設などのインフラ構築がいかに
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