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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (6)

  • アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

    アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ

    アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して
  • アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis

    今年の10月から始まって現在放送されているアニメ『かんなぎ』は、『涼宮ハルヒの憂』や『らき☆すた』の制作に関わった山寛が監督をしているという点で、現在最も注目を浴びている作品だろうし、僕自身もそのような文脈で期待していたのだが、放送が2ヶ月経った時点での感想を述べてみると、この作品は、いったいどこへ向かっていこうとしているのかという方向性のよく分からない作品だと言える。 もちろん、この作品が、他の無数のTVアニメと比べてみたときに、比較的上質の作品であることは間違いない。オープニングのアニメーションは実に素晴らしい。ナギが歌っているアニメーションのクオリティが高いというだけでなく、間に挟まれる似非アイドル物語の演出も素晴らしい。加えて、オープンングの曲もエンディングの曲も非常にいいと思う。同様に、編の演出でも、注目に値する場面がいくつもあった。 だが、それにも関わらず、この作品を全体

    アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis
  • 2008-06-15 - metamorphosis『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前CommentsAdd Star

    いわゆる「日常系」というジャンルに『らき☆すた』も含めることができるだろうが、しかしながら、そこでひとつの作品ジャンルとされている「日常」とはいかなるものなのか、「日常」という言葉の内実とはどのようなものなのか、ということがひとつの問題となる。 アニメ『みなみけ』の前口上「この物語は、南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く物です。過度な期待はしないでください」は、この作品を一度でも見たことがある人ならば同意してもらえると思うが、極めて逆説的な自己規定である。そこでは、南家の「日常」が描かれているかも知れないが、それを「平凡」と呼ぶことは決してできないだろうし、そもそもそこで描かれている出来事が「日常」であるかどうかも疑わしい。 宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』で『うる星やつら』を引き合いに出して「終わりなき日常」について語っていたが、これも逆説的である。つまり、『うる星やつら』では友引町の

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  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ - metamorphosis

    共通前提の崩壊の問題と不快な他者の侵入の問題との間には密接な関係があるように思える*1。つまり、他者が、たとえ善意からだとしても、何か介入的な行為をしたときに、そうした行為をひとつの越権行為、自分を害するために行なわれた攻撃的な行為と見なす、ということがありうるだろう。例えば、『らき☆すた』の第1話で、チョココロネのべ方に対して、みゆきがこなたに行なったような介入は、場合によっては、不快な他者の侵入として感じられることだろう(「うざい」などという言葉が示しているのは、まさに、このような他者の不快な侵入のことだろう)。 ここにおいて、つまりは、許されている行為と許されていない行為との区別があるわけだ。しかしながら、その境界線がまったくはっきりしないということ、そうした境界線が常に流動的であるということをこれまで述べてきたわけである。 不快な他者の侵入の最もよい例は喫煙である。喫煙についてし

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ - metamorphosis
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その2)――チョココロネの「正しい」食べ方 - metamorphosis

    チョココロネを細いほうからべるか太いほうからべるか? いったい、なぜ、そんなことが問題になるのだろうか? この問いに見出される問題設定とは、自明性の欠落である。おそらく、それほどの深刻さはないだろうが、泉こなたの思考にふと到来したものとは、そのような一種の不安、共通前提の崩壊がもたらした不安であるだろう。何が正しいことであり何が間違っているのか、何が常識であり何が非常識であるのか。そうしたことの自明性が薄れたことによってもたらされる不安であるだろう。 昨年「KY=空気を読めない」という言葉が流行したわけだが、「空気を読む/読めない」ということが、現在になって、ことさらに問題になったのも、その背景には、共通前提の崩壊があることだろう。つまり、空気を読める能力というのは、過剰な流動性にさらされている現代のわれわれにとって、ある意味では、獲得される必然性のあった能力であり、こうした能力を身に

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その2)――チョココロネの「正しい」食べ方 - metamorphosis
    denken
    denken 2008/05/17
    チョココロネの食べ方について熱く考察して起業する
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis

    以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られるものではなく、最近のあらゆるサブカルチャー作品にその片鱗を見出すことができる。小さな物語を扱っている作品には、共通前提の崩壊を、少なくとも潜在的な形で、見出すことができると言える。まさに、その点で、逆説的なことながら、われわれの共通感覚を過度に強調しているような作品は、その背後にある共通前提の崩壊を暗黙のうちに示していると言えるだろう。 その点で、例えば、『らき☆すた』のような作品は、われわれの共通了解というものが、いったい、どのような領域で、どのようなレベルにおいて確認することができるのか(あるいは、確認することができないのか)ということを検証している

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis
    denken
    denken 2008/05/02
    「いったい、そこで何が争われていて、どのような仕方で問題が解決されているのか? そうしたことを読み取ることのできる作品が『らき☆すた』なのである。」
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